自分の中で折り合いがつかない感情に出会うと、それを徹底して言葉にすることを意識付けている。そして今、新しいネタが出来た。(というより、気付いた)
それは、多動・衝動が目立つ生徒に接すると、異常に心が疲れるということだ。他の人からすると「ちょっと賑やかだね」くらいなガヤガヤでも、猛烈な疲労感を抱く。
とはいえ、この疲労感の解像度は全く高くないどころか、疲労感という表現が正しいのかさえ分からないほど、つゆほども理解できていない。
確実に存在はする、重苦しく辛い気持ち。そうとしか言えない。その感情が、多動・衝動が目立つ生徒に触れると、確かに湧き上がり、心を埋め尽くすのだ。
ここを掘り下げることで、せめて僕が抱える辛さは変わらずとも、その正体や、同じ苦しみを持つ人の言葉を知りたいなと、切に考えている。
知らないがゆえに、僕は孤独だ。僕のこの悩みは、僕だけのものになっている。そんなアホな話は無いはずなのに、だ。
ということで今日は、この臓腑に沈積するどす黒い鉛を徹底的に言葉にする中で、何か救いになるヒントに出会えることを願いながら、記事に書き殴ろうと思う。
ではいこう。
「この気持ちはなんだろう」
自分の心を観察するにはどうすればいいか。【観察力の鍛え方】に倣って、やっぱりまずはこの気持ちを描写することに尽きる。
あくまで現在身体に起きている変化さえ考えればいいので、例えば何がトリガーとなってこのメンタルになったかという部分は割愛する。
頭の働きが凄く鈍くなり、何もする気が起きない。しかし突発的に振られた仕事など、やむを得ず取り組まねばならないタスクに触れると、それはこなせる。
胃の辺りから食道にかけて何かが詰まった感覚があり、食欲は薄い。呼吸は平時より浅い感覚があり、それでいて心拍数は平時よりも高い。
ただただ不愉快で、嫌悪感があることだけは間違いないが、それが誰のどんな行動に対し、具体的に向いているかはわからない。
という感じだ。ここで一旦、今自分に湧いている感情の矛先がわからないことがわかったので、次はその仮説を作ってみる。
自分の感覚や常識は、案外いい加減だ。長座体前屈は、見た目と違って腰の柔らかさというよりハムストリングスの柔軟性が大事なのと似ている。
まず、この不快・嫌悪という感情は、例えば生徒そのものに向いているのかと自問してみた。すると、顔を思い浮かべても、イヤな感情は伴わない。違うようだ。
次は、この問題的な言動によって、迷惑を被った(と僕が考えている)周りの生徒の心中を考えてみた。しかし、申し訳ないが、何も心は波立たない。
そんな感じで、他の講師の気持ちは?その行動があると知った親の気持ちは?あるいはその行動を容認したと別の誰かから怒られたと想定したら?と自問を繰り返したが・・・
いずれも、「知らん」「知らん」「証拠を集めて論破する」というズレた答えが己のメタから返ってきた。なんというか、袋小路である。
・・しかしまだ手掛かりはある。どうにもこの感情、人生で今までに抱いたことが皆無かと言われれば、そんなことは無いような気がずっとしているのだ。
一体どの気持ちと似ているのだろうか。過去の写真や、場合によっては自分の残した日記等を読み返しつつ、類似した思い出を探してみる。
例えば、映画「セブン」を見た後の心境に似ている。SNS上で胸糞な漫画を読んだ際に抱く心境にも似ている。頭の悪い非難コメントを投稿する人にも、同じ感想を持つ。
理不尽なことでキレられた際にも、同じような感情になる気がする。かと思えば、生徒の合格発表を待つ間も、すごく心の底が重くなったのを覚えている。共通点はなんだ。
・・・この辺まで考えていた際、ふと、過去の自分が残した、自動思考キャッチトレーニングのExcelシートを発見した。
すると時折、今日と同じ心境を書き残したシートがあるのに気付いた。更に具体例を得ることが出来そうだ。だからまた、書き並べていく。
自分が応援しているアスリートの結果が気になって落ち着かない。授業中の不真面目な態度を改善する兆しの無い生徒に重苦しい感情を抱く。
説明を理解できなかった質問者にマウントを取るYahoo!知恵袋の小物に嫌悪感。生徒の成績が下がってしまった。
等など。うーむ、文字だけなら同じ感情を抱いているハズなのに、全く共通点が見えてこなくてこんがらがってきた。
となれば、もう少し感情そのものを噛み砕いてラベリングする必要があるってことなのかもしれない。
だから一旦、具体例のディスクリプションは止めて、一つ一つの感情の深掘りに移ってみたいと思う。
恥≒嫌悪≒不安≒恐怖?
ただこの中で1つ、既にある程度まで内省が終わっている感情がある。それは、嫌悪感だ。先の例だと、誹謗中傷や無駄なマウントに対する感情だと言える。
jukukoshinohibi.hatenadiary.com
しかし、生徒の合格発表を待つ間とか、好きなアスリートの試合結果待ちとかは、嫌悪感とは程遠いように思う。似て非なるこちらの感情は、果たして何か。
こんなときは、プルチックの感情の輪をぼーっと眺めるのに限る。すると、面白いことに気が付いた。
不安の定義だ。それによれば、期待と恐れの混合感情がそれなのだという。これを知ったとき、すごく納得することがあった。
合格しているという期待、それでも不合格だったらどうするかという恐れ。これらが混ざり合う・・というより、その両者を行ったり来たりするとき、僕はとても、不安だ。
対象について理解や分析が不十分だからこそ、楽観も悲観も的を射ていないように感じ、両サイドからの思考を絶え間なく往復する。不安の正体が、また一つ見えた。
そしてプルチック繋がりでもう一つ見えたのが、恥と不安の繋がりだ。恐れに期待が混ざれば不安になるが、恐れに嫌悪が混じると、恥になるのだという。
―僕の心を時折支配する強く重苦しい感情の正体が、段々と見えて、そして繋がってきた。となれば次に深めなければならないのは、「恥」とは何か、だ。
ということで一旦、「恥」とはどんな感情か、簡単にまとめてみる。
「恥」とは何か?
「恥」とだけ聞くと、例えば「照れる」とか、「人前で失敗する」とか「笑われる」とか、そういう意味合いを感じることができる。
しかし英語だと、上記の話は大体「embarrassed」の定義になり、それとは別に「shame」という「恥」を意味する英単語もあることから、話が少し複雑になる。
だから「shame」をしっかりと調べていく中で、僕が今抱えている気持ち・感情にすごく近い定義を発見することができた。
欠点、または罪の意識から生ずる苦しい感情
罪の意識という言葉に、すごくしっくりくる。僕は実際、罪の意識にすごく弱いというか、些細なことも自分のせいだと思うほど、認知がかなり歪んでいる。
その遠因として、僕はHSPの気質を持っていることから、歪みが始まっているのではと、仮説立てている。だが今回は話が反れるので割愛する。
―恥、罪悪感、恐れ、不安、期待、嫌悪。これらの感情をじっくり調べていくことで、僕の心を埋め尽くす鉛の正体、その仮説がついにはっきりと見えてきた。
ということで最後に、ざっくりとした結論を付記して、この記事を終わることにする。
「不安」と「恥」の強すぎる混合感情。
思考が鈍化するほど脳が鈍り、それでいて臓腑に苦しみを抱くほど体調にも影響が出る。CPUが100%の状態がずっと続いているかのように、心身がしんどい。
一体僕の脳は何を処理しているがため、ここまで大変になるのか。そのカギとなりそうなのは、「不安」と「恥」の解釈だ。
これらを分解すると、「不安=期待+恐れ」、「恥=恐れ+嫌悪」という風になる。そして恥という感情は同時に、罪悪感を意味することもある、と。
密接に繋がった2つの感情。そして何かに囚われているとき、僕は恐らく両方に取り込まれている状態なのだろうと、納得している。
罪悪感を起点に恐れが生まれ、恐れを起点に恥が生じる。感情が流れて恥が薄れると、今度は楽観による期待が生じ、不安の感情が強まってくる。
そんな自分の対する嫌悪感がトリガーとなれば、気持ちはまた恥へと触れる。感情は流れる。しかしその流れが、僕にとって苦しい要素ばかりを拾い、ループする。
そして僕自身がHSP気質だとするならば、このループを断つことは極めて困難になる。あらゆる不安を拾い、対策を立てようと強くアンテナを張るのが、この性格だからだ。
結果、CPUは100%の状態となり、僕のリソースを急激に貪り食っていく。悩むために悩んでいるようなものなので、生産的な解が生まれることさえ、無い。
だからこそ、喉元さえ過ぎてしまえば、「ただすごく嫌だった」という薄い感想しか残らないというわけなのだ。
ループに嵌っている最中には見えていたはずの課題点も、抱いていた罪悪感も、全てが消えて、疲労だけが残る。なんと不健康なのだろう。
・・・ところで、純粋な不快感・嫌悪感程度であれば、その対象を”哀れむ”ことで、ネガティブなループを断つことができるようになりつつある。(言語化が済んでいないが)
そんな特効薬というか、クソみたいな「不安」と「恥」の無限ループに風穴を開けるような思考法は、何か無いものなのだろうか。できれば、具体的な方策が欲しい。
だからもっと根源的に、直感的に、僕にとって「恥」というラベリングをされた状態で、強く残っている記憶をほじくってみた。言うなれば、トラウマのことだ。
すると、そこに大事なヒントが隠されていた。僕にとって強い恥を伴った思い出はその大半が、自分が打てたはずの手を打たなかったという後悔に紐づいている。
・・・よく考えたら、過去にも多動・衝動が目立つ生徒など山ほどいた。しかしその全てが別に嫌な記憶とともに残っているわけではないのは、何故か。
その線引きは単純だった。勇気(笑)を出して、僕が問題と思った行動を問題と伝えて、話を進めたかどうかだったのだ。うわあ、アダルトチルドレンだぜ。
注意したことによるクレーム?反発?そんなもの本気でくだらない。実際食らったこともあるが、「アホなこと言ってるな」と、それこそマジで"哀れんだ"ものだ。
僕にとっての特効薬は、行動だ。伝えることだ。将棋で言えば、一手打つこと。そして局面を進めること。わかってくれるはずという期待は捨てる。
・・今、自然に期待という言葉を使ったなぁ。待てよ、またなんか繋がりが見えた。わかってくれるかもという期待に、そうではないかもという恐れがくっつけば・・
おめでとう、不安という感情の出来上がりだ。そしてそんな小さい自分を嫌悪すると、おめでとう、恥に転化される。
その対象に接しつつも特段手を打たない限り、このループは何重にも繰り返され、その刻印がしっかりと心に残ることになる。
完全に置いていっている気がするが、僕の中で、全てが繋がった。
話さずともわかってくれるという期待。それによって生まれ得る不都合な未来という恐れ。それによる不安が嫌悪により恥へと変わるとき、僕の重苦しい感情が生じるのだ。
全ての元凶はなんなのか。もうわかった。
苦しさや違和感を内々に秘めながら、それに誰かが気付いてもらうことを願う、僕自身の甘さだ。
一言で言えば、無邪気な期待だ。この無邪気な期待こそが、僕の心を蝕むトリガー。そう仮説を立てると、全てに、本当に、シンプルな合点が得られる。
人は黙っていてもわかってくれない。当然だ。だから伝える。話はそこから始まる。もう抱え込むのは無しだ。言わないまま悔やむのは、絶対に嫌だ。
全ての学びを共有すること。僕にとってはこれが、目指すべき学び舎としての理念だと感じていたが、これはそもそも、巡り巡って、僕を救う考え方なのだ。
抱え込むことの愚かさが、今完全に飲み込めた。それこそ嫌われる勇気の青年みたいに、「・・・あぁ!!」と言いたくなるほど、僕は今感動している。
だから僕は明日、またその生徒と出会うのだが、面と向かって伝える。もちろん言葉は選ぶけれども、だ。
ああ、すっきりした。これだから自問自答は面白い。だがたまには、外にも問いを発して、もっとみんなのそれを頂いて、みんなとそれをシェアしたいな。
霧が晴れた。5000字もカタカタと内省してよかったと、すごく得心している。では今日はこの辺で。