僕は何がしたいのだろうか。最近、このことをふと考える機会が増えた。僕は究極この世で何をしたくて、そして何を遺して、消えたいのだろうか。
生きることについて、究極的な目的など無いと言われる。それは僕も同意する。僕は勇者か何かの末裔ではない。大仰な任務や命運など、何も背負っていないのだ。
しかし無意味だからといって、特に何かしらの指針も定めず、ただふらふらと生きていくには、人生はあまりにも長い。主体的に暮らしたいという欲はあっていいはずだ。
だが、それがなんなのかを答えられる気が全くしない。フェルマーの最終定理よろしく、問題文は簡潔なのに、思考の第一歩目すら、何の見当もつかない。
「お前は何がしたいんだ?」という超難問に、そろそろ答えられるようになりたい。今日は、そう思った日の思索をただつらつら書いただけの記事である。
まずは愚直に「いい」を集める。
まずは何から始めればいいか、本当にわからない。僕がしたい何か。僕はどうありたいのかという願望。そのいずれもが言葉になっていない。
こんなときは具体を搔き集めて、抽象的なものを探す方が良さそうだ。そこで人生の勝算よろしく、まずは他人のモノサシを自分に当てまくることから始めてみる。
例えば、大谷翔平、イチロー、朝倉未来、井上尚弥といった圧倒的な個の強さとカリスマ性を備えた存在に僕はなりたいのかと問うた。しかし答えは「NO」である。
己が持つ強さや能力で他人を魅了し、集め、一つの組織に束ねる。この生き様を想像してみたが、やはりどうにも異物感がある。とりあえず、この方面ではないらしい。
―こんなとき、本当にふと、頭に浮かぶ名前があった。それは、東洲斎写楽だ。
美術の教科書で一度は見たことがあるだろう、今なお高い評価を得ている浮世絵師。そんな彼は、有名でありながら、その正体がほとんど分かっていない。
短期間のうちに、次々と革新的な手法を駆使した作品を発表した後、忽然と姿を消したという。僕は何故かこの雲隠れに、「いいな」という感想を持つ。
昔どこかの記事で書いたが、実のところ僕は、人の思い出に残ることがそもそも好きではない。「あなたのおかげで」という言葉が、実はむず痒くて嫌いなのだ。
僕の指導が微力となって希望の進学先に行けたとして、そこから先の人生に、僕の影を入れないでほしい。生徒を送り出すたび、実はこんなことを本気で願っている。
教え子が僕を囲んでいる光景。僕の棺が教え子に囲まれている光景。それらを想像してみたが、「理想とは程遠い」という感覚を抱いてしまった。
僕は何かを成したらとっとと消えたいのだろうか。その仮説に立脚してみると、少し自分の中で腹落ちしていなかった思考が繋がるのを感じた。
独立。仕組みづくり。コミュニティ論。オフラインの集まり。講師からの引退。僕がちょこちょこ呟いていたボヤキの根っこに、何か大きな繋がりが見える。
・・・ここまで考えていく内に、更に思い当たる節があった。それは「ビジョナリー・カンパニー」の一節だ。
昼や夜のどんなときにも、太陽や星を見て、正確な日時を言える珍しい人に会ったとしよう。
・・この人物は、時を告げる驚くべき才能の持ち主であり、その才能で尊敬を集めるだろう。
しかし、その人が、時を告げる代わりに、自分がこの世を去った後も、永遠に時を告げる時計を作ったとすれば、 もっと驚くべき事ではないだろうか。
すばらしいアイデアを持っていたり、 すばらしいビジョンをもったカリスマ的指導者であるのは、「時を告げること」であり、 ひとりの指導者の時代をはるかに超えて、いくつもの商品のライフサイクルを通じて繁栄しつづける会社を築くのは、 「時計をつくる」ことである。
当初僕はこれを読んでも、その言わんとする意味がよく理解できなかった。しかし今改めて読み返すと、この教えこそ、僕の願望を的確に描写しているとさえ思えてくる。
僕は時計を作る人になりたい。僕がいなくなっても自走する組織や枠組み、作品を作りながらも、その中に僕の存在感を遺したくない。
・・意味不明なことを言っているようにしか思えないが、これを書いた今、「おぉ!だいぶ近付いた!!」という妙な手応えを、実は得ている。
破滅願望があるのかと心配になったが、とりあえず今すぐ己の命を捨てたいと思う闇は自分の中のどこにもない。そういう衝動には至っていないようだ。
そういえば、僕は子どもはおろか、妻、彼女といった存在も、今はもう全く求めていない。いつかその理由を尋ねられた際、咄嗟に答えたことが、心に残っている。
僕は「誰を特別にもしたくないし、誰の特別にもなりたくない」と返した。厨二病にしか聞こえないが、改めて言語化すると、「その通りだよな」と、今でも思う。
そして自分が本当にかっこいいと思う振る舞いについて、現実のそれやエンタメのオチなどを思い返してみたが、そこにも一つの共通点があるのに気付いた。
物語を通じて後世へ伝説や組織、夢を託し、そのうえで、表舞台から姿を消す。この一連の流れに僕は強いシンパシーを覚える。僕もそうありたいと思う。
―これらを挽いてフィルターに通し、お湯をかけてエッセンスを抽出すれば、一体どんな味わいのコーヒーになるのだろう。そこに僕の真意・夢は反映されるのか。
続いてはその工程に移ってみよう。
創り、託し、消える。
僕が強く関心を持っていることは、大袈裟に言えばコミュニティの創造だ。そしてそれは、僕が旗印となる組織ではない。僕という個は要らない。
僕以外の皆が主役になれる場所。僕以外の皆が楽しそうにしている場所。僕以外の皆が学びを深められる場所。僕以外の皆が未来を切り開ける場所。
そういう場所を創れたとき、僕は幸せだろうなと思った。時を告げる人よりも、時を刻み続ける時計を作ることが、僕の仕事だろうと納得している。
そしてその場所の完成は、恐らく誰かに長を託し、僕が表舞台から消えたとき、初めて達成されることなのではと思う。
ここから先は初めて言語化することなのだが、今の僕の目標は、支店全校舎で一番の実績と売り上げを叩き出したうえで独立を宣言することだ。
1位を取り続けることには興味がない。むしろそれを誰かに譲り渡して去る自分という方が、引き際としてすごくしっくりくる。
僕が1級を取ったのも、DIYを覚えているのも、休みを削って指導に邁進しているのも、それによって”僕のキャリア”を高めるためではない。
どちらかと言えば、コミュニティを創るためだ。矛盾するようだが、僕という存在を感じない、僕の理想とする場所を設計すること。これが凄く、楽しい。
ぼんやりと「似ている」と思うモデルは、美術館だ。特有の世界観や雰囲気がありながらも、それを誰が設計したかということに、誰も意識を向けない。
創り上げた人が居るはずなのに、その存在を感じない。それでいて、完成された場所という印象を強く抱く。この相反するような状況を両立させているのが、美術館だ。
美術館には、あらゆる人の知識・経験が凝縮された作品が展示されている。そこから何を感じ取るかは鑑賞者に委ねられており、その時々で何を感じるかは大きく変わる。
ここまで書いて、突然ハッとした。何か自分の中ですごく大事なことに気付く一歩手前に居るという感覚が突然得られたのだ。
しかし・・・自分の手の長さより深いビンの底にあるボールを拾おうとするかのごとく、届きそうで届かない。よく見えないから、正体を拝むこともできない。
これは・・また後日の僕に託すことにしよう。だからもう一度具体を列挙し、メタがそれを繋げてくれることを、願ってやまない。
東洲斎写楽、美術館、独立、講師からの引退、コミュニティ論、特別でありたくない、時計を作る、消える。
これらの言葉が意味するものの集積が、僕という個人なのだろうか。その答えを得られるまで、ひたすらに観察を止めないでおこう。
では今日はこの辺で。