精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

「予習」とは、そもそも何を目指してやるものか?

理想の予習とは何か。ここ最近、これを改めて考え直すきっかけがあったので、記事にしておこうと思う。

 

白状すると、僕にとって予習というのは、今からの授業で何をするかを決めたり確認したりする、という程度の意味合いのプロセスでしかなかった

 

だからここ最近は、がっつりとノートに何かをまとめて、綿密な板書計画を作るといった予習を、ずっとしていない。

 

代わりに、日頃のインプットの量を増やして、 本で得た知識や、新しい経験則等を適宜使って、いわばアドリブ的な方法で、しばらくやってきている

 

正直、英語に関しては、僕はそれでいいと思っている。しかしながら、特に国語と社会において、そのやり方は少し改めた方がいいかも、と思うことがあった。

 

今日はそんな話が起点である。

 

 

”これ”が見つかるまでは予習をする。

 

自分の中で、「ここまでは予習をしておこう」というラインを定めてみることに決めたのは、本当につい最近の話だ。

 

そのきっかけとなったのが、まだ途中なのだが、「歴史思考」という面白い本に出会ったことである。

 

これを読んでいると、誰もが知っている歴史的人物や事件の裏側が凄く瑞々しく、わかり易く描写されていて、本当に手が止まらなくなる

 

偉人といえど、情けないエピソードもあり、人間くさい逸話もある。それはたとえ、キリストや孔子であっても、例外ではない。

 

歴史の解説書というよりかは、そういった歴史の”本質”の理解を通じて、固定観念を解きほぐし、広い視野の獲得を目指すと言った、そんなメッセージを僕は感じている

 

「人生の良い悪いなんて、その人が生きてる間に定まらないことさえあるのに、その結果を急ぎ過ぎている人が、なんて多いのか」といった言葉には、少しドキッとした。

 

僕自身、「若いうちに、伝説を残したら、成功者だ!(つまり逆なら失敗の人生なのだ)」という風に思っていた部分が無きにしも非ずだ。いい意味で客観視できた。

 

―こういう深いインプットが隠れた本を読んでいると、強く思う。

 

教科書に書かれていないのに、面白くて、かつ学校の勉強にも通じるようなことを見つけてくるためには、一体どうすればいいんだろう、と。

 

それを自問自答してみると、自分の中でしっくり来ているラインが一つ浮かび上がった。それがさっき述べた”ライン”のことである。

 

詳しく言うと、その日に教える予定の単元を教科書や問題集で確認し、1つ以上必ず”問い”を立てて、その答えを調べるというものだ。

 

実施、冷静に考えれば、教科書の記述でもわけがわからないことなど、山ほど存在する。その一例を紹介しよう。

 

これはまた別の本で知った話なのだが、よくよく考えれば聖武天皇が全国に国分寺国分尼寺を建立した」という話は、意味がわからないと言えないだろうか?

 

あるいは「仏教に基づいて国家を安定させようとした」とだけ言われても、これも意味がわかり辛い

 

しかし多くの中学生や、何なら僕らも、それをそのまま何の疑問を抱くことも無く覚えてしまう。別にこれ自体否定しないのだが、本質的な理解とは少し遠いとも思う。

 

実際、「それってつまり、どういうこと?」という子供みたいな疑問を挟んでみると、答えに詰まることがある。実際、僕もそうなのだ。

 

このテーマについては、非常に面白い説明が、読んでいる本にたまたま書いてあった。乱暴だが、紹介する。

 

聖武天皇の治世においては、もともと日本のその各地域ごとに土着信仰的な、いわば地域特有の神道と呼ばれる信仰がすでに存在していた

 

そこにいきなり、日本のリーダーと称する天皇が登場し、「俺に従え」と言って言うことを聞かせるのは、やはりなかなか無理がある。(蝦夷の例もあるし)

 

それこそ八百万(やおよろず)と呼ぶぐらい細分化していたとなれば、もはや地方の数だけ別物のコミュニティだったと考えて差し支えないだろう。

 

では、それらを統合し、国家として機能させるには、どうしたらいいのか。そこで聖武天皇が用いたのが、仏教だったのだ。

 

そのためには、無理矢理土着の信仰を否定し、捨てさせるのではなく、神道も守りながら、仏教とうまく融合させていくべきだと。そう考えたのかもしれない。

 

僕も驚いたのだが、全国に国分寺国分尼寺を建立する詔を出した際、近接する場所に神社(宮)をも同時に建立させたそうだ。

 

これによって、その土地の人たちから反発が起こるのを防ぎつつも、全国に仏教という統一の信仰を広め、結果国家としてのまとまりを作ろうとした、と。

 

そんな感じの話が書いてあったときに、僕は本気で面白いと思った。のみならず、実は腑に落ちていなかった神仏習合の意味も、より納得感をもって飲み込めたのだ。

 

ここまで綺麗に面白いと思える問いは、そうそう見つかるものではないと思う。だが、教科書を読んで、問いを1つも見つけられないのは、センサーが鈍っている証拠だ。

 

そのラインをしばらく守ってみて、それによってどう予習の意味合いが変化するか、自分をしっかりと観察したいと思う。

 

どちらかといえば完全な独り言になってしまったが、今日はこの辺で。

 

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