前に書いた記事で、「自分では不快・嫌悪とラベリングしているのに、相場より長く持続する悪感情は、【悲しみ】と紐づいているのではないか」と仮説立てた。
参考になったのはこのグラフだ。これは、各感情がどれくらい持続するかの平均値を調べたアンケートの結果である。(日本人が対象だと、また少し変わるだろうが)
悲しみの感情は他の感情に比べ240倍も長く続くことが判明(ベルギー研究) : カラパイア
これを見れば、悲しみだけが抜きん出て強く持続することがよくわかる。だからこそ、僕にとって嫌な思い出や記憶、出来事は、少なからずその要素を含むのではないか。
そこまで考えたときに、僕はまだまだ、【悲しみ】という感情の勉強が不十分なのではないかと、ふと思い至った。
この感情、言わんとすることは具体を伴って説明できるが、ちょっと突っ込んだことを尋ねられたらうまく答えられそうにない。
悲しさと哀しさの違いは?切なさと悲しさはどう違う?寂しさと悲しさはどう違ってどう同じなのか?等々。
ということで今回は、雑多になることは前提として、【悲しみ】について調べたことをつらつらとまとめてみることにする。
完全に自分のための記事だが、以下本題である。
定義から【悲しみ】を探る。
辞書で【悲しみ(む)】と引くと、こう書いてある。
1 心が痛む思いだ。悲しく思う。また、なげかわしく思う。「別れを—・む」「道徳心の低下を—・む」⇔喜ぶ。
2 (愛しむ)いとしいと思う。愛する。
「端正 (たんじゃう) 美麗なる男子を産めば、父母これを—・み愛して」〈今昔・二六・五〉
3 (愛しむ)深く感動する。
「国王、これを見給ひて、—・み貴びて」〈今昔・九・一〉
4 嘆願する。
「手をすり—・めども」〈宇治拾遺・一〇〉
悲しいという言葉の説明に「悲しい」という言葉が使われていてモヤモヤするが、ある意味激しい心の動きであることが、語源として含まれているようだ。
そして調べていく内に気付いたのだが、主に日本人(あるいは古い中国文化)においては、悲しみは湛えるものであり、言語化できないものという認識が強い。
そのことが色濃く出ているのは、有名な以下の句だろう。
君看よ双眼の色、語らざるは愁い無きに似たり。
人は悲しみや苦悩が深ければ深いほど、静かに澄んだ目をしているように見える。
これ自体は勿論非常に深く、染み入るような想いがある。しかし僕はもう少しだけ、言葉の力を借りておきたい。だから英語での定義も調べてみた。
そして出てきたのは、結構ドライな定義だった。だがその「sad」の説明は、すごく納得できる。
not happy, especially because something unpleasant has happened
幸せでないこと、特に何か不快なことが楽しくないことが原因の場合。
very bad or unacceptableひどく悪い、受け入れられない
a sad person has a dull, unhappy, or lonely life孤独で不幸な、彩の無い人生を過ごす寂しい人
boring or not deserving any respect敬意を払うに値しない、つまらないこと
差異はあるが、「悲しい」という言葉を使うときに込めたい意味が並んでいるという印象だ。(例えば「悲しい奴だな」と言えば、軽蔑のニュアンスが伝わるように)
ただしこうしてみると、「sad」は寂しさを表現している気がする。つまり、悲しみと定義するには、ちょっと弱いのだ。
更に悲しみを強めたら、どうやら「sorrow」になるらしい。今度はこちらの意味を紹介する。
a feeling of great sadness, usually because someone has died or because something terrible has happened to you
強い悲しみの感情。普通、悲惨なことや誰かの死が身に起きることが原因となる。
ここまで調べたことをまとめれば、つまり「悲しみ」は悲惨な出来事によって生じる、心に強い痛みを伴う出来事といったところだろうか。
そしてそれは、人間の根源的な”本能”に近く、言語化が極めて難しい感情と言える。だから黙して語らず、ただ感じ取ることが求められ、ただ耐えることが美徳とされた。
こんなところだろうか。ただ残念ながら、この時点ではいたずらに謎を増やしただけとなった。結局、悲しみとはなんなのか。もっとこれと向き合った人の言葉を知りたい。
ということでここからもお決まりの流れだが、仏教や哲学者などの思索に触れて、更に「悲しみ」について深めていこう。
人は「悲しみ」をどう考えてきたか?
仏教の一派における「悲しみ」の考え方は、すごく興味深かった。曰く、それは人生を歩む以上必ずセットになっている感情なのだという。
根源としては怒りと同じとされ、思い通りに現実がならないことへのリアクションが異なるだけなのだそうだ。
自分がそうあってほしいと願う理想と現実が異なるとき、攻撃的な反応が出るとそれは怒りとなり、自分の心へのダメージという形になるとそれは悲しみとなる。
例えば人間は誰だって死にたくないし、大事な人には去ってほしくない。しかし人はいつか死ぬし、それはつまり、自分の周りにいる人もいつか居なくなるということだ。
願いが叶わないときに心の内に生じる激しい感情。発露すれば怒りとなり、心の中に封じ込められたときは悲しみになる、というところだろうか。すごくしっくりくる。
そして不思議なことに、悲しみを”痛み”と形容する人は、とても多いことに気付いた。なんなら、【悲痛】という熟語さえ存在するほど、悲しさには痛みが伴っている。
愛する子に先立たれたとき、その痛みを親として絶対に忘れたくないと書き残していた哲学者もいた。昇華が怒りより難しいが、ある意味巨大なエネルギーなのだろうか。
ちなみにここで【悲痛】という言葉を辞書で引いてみた。するとやはり、そのベクトルは他者や周りの環境ではなく、徹底して己に向かっていることが伝わってくる。
[名・形動]あまりに悲しくて心が痛むこと。また、そのさま。「—な面持ち」「—な叫び」
受け入れがたい現実に相対した際、周囲にエネルギーを発散させるか、それとも心を引き裂かんとばかりに己に注ぎ込むか。怒りと悲しみは同じ何かの別々な側面に思える。
ここでふと気づいたのだが、プルチックの感情の輪を見てみると、怒りと悲しみは対極の感情ではなく、混ざることもあるという。その際は「嫉妬」になる、と。
ただし日本語的な意味合いだとよく分からないため、原典に当たってみることにした。
するとヒットした英単語は、【envy】であり、英英辞書で改めて意味を引くと、こうある。
to wish that you had someone else’s possessions, abilities etc
他の誰かの持ち物や能力などが自分にあればいいのにと願うこと
ここで面白いのが、仮定法過去が使われている点だ。つまり当人の意識として、「まぁあり得ないけど」という、”自分”に対しての諦めと悲しみを感じられる。
それと同時に、自分の理想である人生や経験、名声を享受している相手への怒りも感じ取れる。嫉妬とは確かに、怒りと悲しみの混合感情なのだ。
学べば学ぶほど、壮大なストーリーのドラマみたいに伏線が無限に展開していく。感情の勉強はこれだから面白いのだが、同時に時間が足りないなと、いつも思う。
取り急ぎの暫定解。
正直、まだまだ紹介したい解釈や考え方は山程ある。
例えば、悲しみに浸ることで、他者への想像力を飛躍的に増すことができる、等。痛みを知っているからこそ寄り添えるのだ。真の共感は痛みのシェアから始まる。
しかしこれらを統合して何か一つのシンプルなところに持っていくのは、今の僕の深度では無理なようだ。だから一旦、自分の中に腹落ちしたことを書いておく。
悲しみとは、自分の心に強い痛みを生じさせる、強い感情の揺れ動き。
この感情の強大さに比べたら、不安も嫌悪感も、些末なものである。それくらい激しい、感情の揺さぶり。そして悲しみがこんなにも強大な理由は、一つ心当たりがある。
それは、自分にとって本当に大事なものが喪われた際にしか湧き上がってこないものだからではないか、というものだ。
僕が最後に強い悲しみを感じたのは、3年前、15年生きた実家の犬が死んだときだ。以来僕は、はっきりと【悲しい】と思える経験をしていないように思う。
もちろん、もの悲しい経験、寂しい経験、辛い経験は何度もしてきた。だがそれらが悲しいかと言われれば、さほどではないな、と。
悲しみとは、心の痛みだ。その痛みの一つ一つが、僕の心に残る、大事なものを喪ってきた古傷だとすれば、僕はむしろこの悲痛さを徹底的に肯定したいと思う。
なぜなら、それは大事な人たちの記憶を僕が忘れていない証拠だからだ。悲しみは消えない。弱まるだけだ。それは何かしらのきっかけで、いつでも強く燃え上がる。
たまにふと感じるもの悲しさ、切なさ、寂しさは、僕の中で鎮まっている”誰かに向けた”悲しみとリンクしているからこそ、込み上げてくるのかもしれない。
この寂しさは、誰との思い出に似ているだろうか。そう自問するのも、面白いかもしれない。
ということで最後は完全に収まりがつかなくなったが、今日はこの辺で。