僕が抱える人間的な課題は山ほどあるのだが、ここ数日、自分が割と「イライラしい」なのに気が付いた。
他者の些細な言動や指摘、その折々に対し、何か感情が逆撫でされるような感覚を覚える。そういうことが2~3個、連続したためだ。
それは怒りや嫌悪と呼ぶにはあまりにも弱いが、特に何も起きていないと受け流すには、あまりにも確実に存在している。だから無視するのもなんだかなぁ、と。
だから今日は「苛立ち」という、よく考えると解釈が割と難しい感情について、腰を据えて考えてみることにする。
「苛立ち」とは何か、まずは分析する。
今回は最初から国語辞書を引くというアプローチを止めて、英英辞書で引いてみることにした。ちなみに、理由は完全に「なんとなく」である。
まず「苛立ち」とは「irritation」と訳されるが、その意味はざっくり以下の通り。
the feeling of being annoyed about something, especially something that happens repeatedly or for a long time
訳:何かについてイライラさせられている感情、特に繰り返し、あるいは長い間起きている事象について
・・これ自体は至極ごもっともという感じがする。確かに、例えばお隣さんの騒音に対しては、激怒というよりイライラするという表し方の方がしっくりくる。
そして類語として「annoy」という動詞も載せられていた。この語が、日本語でいうとこの「苛立ち」に最も近い気がすると、僕は思う。意味を紹介しよう。
to make someone feel slightly angry and unhappy about something
訳:何か特定のモノについて、誰かを少し腹立たしく不快な感情にさせること
つまり苛立ちは、英語的な考え方だと、薄い怒りと不快感の混合感情だと言える。少しだけど、解像度が上がってきた。
―ところで怒りとは、自分が大切にしているものが脅かされるときに抱く強い感情だとされる。自分の大事なオモチャを壊されそうなとき、子供だろうとキレるように。
ならば、薄くても怒りの感情がある以上、苛立ちを覚えている際には、僕は何か大事なものが毀損されている可能性を考えた方が良いような気がしてきた。
そして不快感とは、言い換えれば嫌悪感であり、これは憎悪という基本感情が弱まったものである。ここまで調べたところで、少し思い当たるところがあった。
僕が苛立ちを覚える対象は往々にして、そもそもそれが好きじゃない。その理由が、自分の大事な何かを脅かしているからというのであれば、納得できる点がある。
しかしながら、脅かすという表現は、どうにも大袈裟だ。もっと妥当な表現方法は無いものかと考えていて、割とすぐに思い当たった。
それは、「無駄にしている」という実感だ。「何を」というのはその時々でまるで違うのだが、苛立ちの矛先には得てして、この「無駄感」を僕は強く抱いている。
自分がどうでもいいと思っている部分の掃除を強要されたとき、僕は苛立ちを覚える。自分にとって優先順位が低いところに、時間と労力の投資を強制されるからだ。
この観点から眺めると、渋滞も行列も花火大会も人混みも、満足度が低い場所に大事な時間を食われるという不快感が先立ち、苛立ちになっていることが浮き彫りとなる。
英語から入っても、言葉の解像度や理解は深まるとわかり、色々と有意義だなと思っている。
―ところで、ある程度「苛立ち」の正体は見えてきたが、ではこれを理解したうえで、どう利用していけばいいのだろうか。
もちろん、苛立ちの対象を自問自答することで、自分が価値観として大事にしているけど、言語化に至っていない物事が掴めるという側面はある。
しかしそれだけではないよな、と。そう思ってもう少し調べてみると、すごく素敵で建設的な考え方を知るに至っている。引き続き、その話を書いてみよう。
「苛立ち」を昇華し、成長に変えよ。
それはこのブログだ。ちょうど「イライラ」について考えていたときにアップされたので、タイミングとしても不思議なくらいドンピシャだったのを覚えている。
そこに書かれている一文が、すごく目から鱗であった。それはこんな話だ。
例えば、批判的なことばかりいう人は、批判的なことばかりいう親の元に生まれるようになってるし、威張るような人は、威張ってる親の元に生まれるようになってます。
「いや、私は威張らないよ」と思ったあなた。それは威張るのを我慢してるか、今はたまたま威張れるような立場じゃないからなんです。
表面だけ装っても「心の傷」は治りません。
ではどうすれば「心の傷」が治っていくのかというと、「イライラするのは自分にもそういうところがあるからだ」と気づくことなんです。
でも気づくと言っても、言葉だけではなく本当に心から気づくまでは、何度も何度も相手にイライラすることが続きます。
これを有名な、あなたの周りにいる人はあなた自身の鏡なんだという「鏡の法則」ともいいますよね。
この神さまがくれた最大のヒントである「鏡の法則」を使い、自分の「心の傷」を知り、そして根気よく治していく。
そうすればどんどん人生が幸せになっていくようになってるんです。
私も「鏡の法則」を知ってから、自分の親や周りの身近な人の「これは嫌だなぁ」とか「イライラするなぁ」と思うことがあると、「自分にもそういうところが必ずあるんだなぁ。しっかりこの傷と向き合っていこう」と思うようにいつも心掛けてます。
人は録音された自分の声を聞くことが大体嫌いなように、自分が無意識で理解している、自分が嫌いな点を見せつけられることも、同じくらい嫌いなようだ。
そう考えてみると、僕が苛立ちを抱いた対象が特定の人の言動であると、それを裏返せば僕自身の人間的な課題にリンクしていることがうっすらと見えてきた。
僕がどうでも良いと感じていることに一生懸命になれと言われて苛立った際、多分僕も他人に対し、熱くなることを強制するフシがあるという証左なのだろう。
それをさらに一般論にしていくと、自分と他者の温度差が高い状況は、大抵嫌いという自分のしょうもなさがまざまざと浮き彫りになってきた。
相手の心の温度を上げるには、圧倒的熱量をこっちが有するのみならず、優しく丁寧に、それこそキャンドルサービスのように火を与えて時間をかけることが大切だ。
説明という根回しも然り、相手によっては数値・金銭といったメリットを提示するという場も然り。究極、賛同してくれる人だけ集めて、盛り上がるという手を採れるか。
「苛立ち」は、自分が無意識下で自覚している弱点に対して持つ感情。そういう風に解釈を変えると、その都度僕は、大切な学びの場に立っていることになる。
イライラした刹那、即座に意識の方向を己に向け直す。これができれば、僕という小さな器は、初めて少しずつ広がっていくのかなと、そんなことを思っている。
では今日はこの辺で。