精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「どうでもいい」という言葉は、とてつもなく懐が大きい言葉ではないかと思えてきた。

「受容」「受け入れる」「ありのままを受け止める」「期待しない」といった、心を中立に保つための心構えを、方々で見かける。これが簡単に聞こえて、難しい。

 

僕自身もその大切さは頭で理解しているのだが、それを体現したらどうなるか、その意識にどうすれば持っていけるか、腹落ちしないまま1年くらいもやもやしっぱなしだ。

 

どうすれば僕は、思い通りにいかない現実を、もっと許せるのだろうか。執着を手放し、心を中立に置けるのだろうか。偏りのない思考は、どうすれば実現できるのか。

 

それを知りたくて色んなことを勉強してきたが、どれもしっくりこず、僕はどうしても、理不尽を「受け入れる」だけの器が無いように思えて、落ち込むことも多かった。

 

そんな僕だが、ここ最近急に、「もしかして、受け入れるってのはこの感覚か?」という手応えを得られるようになってきた。しかもそれは、そこそこ狙って引き起こせる。

 

今日は自分の中でそれをさらに腹落ちさせるべく、その手応えをなるべく言葉にしてここに並べておく次第である。

 

 

「どう在ってもいい」

 

僕にとって一番「受け入れている」感覚が強いのは、その対象を心底どうでもいいと思えているときだ。この仮説に最近行き当たり、以来確認作業を重ね続けている。

 

「どうでもいい」という言葉は辞書に載っているタイプのものではないようで、その意味も語源も、どこか投げやりなものしか見つけられなかった。

 

だが、「どうでもいい」ことを英語で言うとどうなるかを調べてみると、なるほどね、という感想を持つ。英語では、「Unimportant」「nothing」と表現するようなのだ。

 

どうでもいいことは、僕にとって重要でも無ければ、そもそも別になんでもないものを指す。特に何の感想も感情も生じないもの。

 

だからそれが、この世でどう在っても僕には関係がない。すなわち、「どうでもいい」のである。ここまで繋げて考えてくると、すごくスッキリとしてくる。

 

僕は今まで、受け入れるとは、ONEPIECEの以下のコマのようなメンタリティを指すと考えていた。


自分に牙を向けても、自分に反発しても、なんなら自分に敵意を向けてきても、それでも大きな器をもって受けとめて、愛を注いでやる。これが受け入れるだと思っていた。

 

だが、それは選び抜かれたごく一部の優しい人が、修行の果てに稀に至る、究極的な理想なのではないかと思う。非現実的な愛より、僕は妥協した愛を身につけたい。

 

そのときふと気が付いた。腹が立つ存在の言動全てを愛することは無理でも、それが自分の人生にまるで影響のない、どうでもいいものだと解釈し直すことはできるのでは?

 

例えば僕は、過去割と理不尽なクレームを食らったことがあるのだが、その相手に対して今、僕は何の感情も抱かなくなっている。

 

時の経過がそうさせたのかもしれないが、自問自答を繰り返して、以下のような結論に至ったことが大きかったのではないかと思う。それはざっくり、こんな問答だ。

 

そいつに対して腹を立てている自分が居る。だがそいつがこの町に暮らしているとして、それによって僕の生活には何の影響が出ている?―何も出ていないじゃないか。

 

そいつが宝くじで2億円当たったら、僕は不幸になるだろうか。いや、心底関係ないし、とてもどうでもいい。

 

そいつの身内に不幸があったら、僕は幸福になるだろうか。いや、これまた心底関係ないし、僕の人生に影響がないという意味ではどうでもいい。

 

そいつの息子が東大に受かろうが、落ちようが、そいつが半身不随になろうが、脳卒中になろうが、僕の人生には何の影響もない。

 

どこで何をしてようが全く僕には関係がない。つまり、どうでもいい。心底、どうでもいい。どうでもよくないと思うことさえ困難なくらいだ。

 

その辺で生きる、僕が知覚してない昆虫が何をしようと、僕の人生に影響が出ないのとすごく似ている。

 

本来どうでもいい存在を意識の内に引っ張り上げているのは、ひとえに僕の我に過ぎない。手放してしまえば、そいつの存在は他者・動物・植物とごっちゃになる。

 

何の意味付けもそいつから取ってやればいい。論理的にもどうでもいいんだから、つまりそいつはハナから、どうでもいいのだ。

 

もちろんそいつにとっても僕が何をしてようがどうでもいいし、仮にそいつが僕に対し敵意を持っていようが、それは僕に伝わってこないので、マジどうでもいい。

 

という具合に。思考プロセスは似て非なるものだが、些細な欠点、理不尽な感情を鎮火しスルーしているという結果だけ見れば、非常にそっくりだと考えて良さそうだ。

 

こんな風に、自分の価値観・常識にリンクしているモノを丁寧に観察・分析し、それが実はどうでもいいんだと気づけた際、僕の器は都度拡大していくのではないか。

 

僕は対象を無条件に愛することは、まだ難しい。だがその対象がやっていることを、どうでもいいと思えるようになることは、まだ可能なように思う。

 

僕自身が「どうでもいいと思ってんだよね」とさえ口にしなければ、周りの人は「器が大きい」と評するんではないだろうか。というか、同じことを言っているな、と。

 

どうでも良くないと思うモノが多い人ほど、現実が自分の思うようにならないことに苛立っている印象がある。逆もまたそうだ。

 

僕は大体のことがどうでもいいんだと気付くことを取っ掛かりとして、世界に対し、もっと優しくありたいと思っている。

 

では今日はこの辺で。

 

 

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村 ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村