精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

今一番の僕のコンプレックス。「無責任な期待」をどうやって捨て去るか。

人間というものは不思議なもので、30年チョイ生きてくれば、自覚し、直そうとしさえすれば、自分にとって弱点だと思える思考の癖も段々と取れてくるもののようだ。

 

しかしその中でも、新たに目立ち始めたのか、それとも実は昔からそうだったのかわからないが、自分の「無責任に期待しがち」という思考の癖がとても気になっている。

 

特に低学年の子供と接する際に感じるストレスの元凶はここにあると感じており、ここを認知して正していくことは、今の僕にとって本当に急務レベルのものである。

 

期待をどうやってかなぐり捨てるのか。ケガで拘縮した筋肉を、使うことでその機能を取り戻すように、僕の心の歪んで固まった部分を内省し、その正体を掴みたい。

 

今日はそんなお話である。

 

 

他の人は「期待しない」をどう考えているのか。

 

そもそも期待はなぜ厄介なのかというと、それが満たされなかったとき、その人や自分自身への敵対心や怒りなどへ、簡単にすり替わってしまうという特性のためだ。

 

「今日は大人しく勉強してくれるかな」という期待を”満たされなかった”ときその子に対して猛烈な苛立ちを覚えるように。期待された方はたまったもんじゃない。

 

これはいわゆる贈り物や親切をしたときにもよく発生する。例えば自分が誰かの手伝いをしたとき、そのお礼が少し塩対応だったら、苛立ちを覚えるものではないだろうか。

 

これらを考えると、期待とはストレスに分化する可能性がとても高い思考・感情であり、取り扱いを間違えると簡単に振り回されるというリスクを内包していると言える。

 

だから期待はしないことが大事。もっと言うと、期待はせず、信じたり受け入れたり、そういう風に思考を持っていくことが大事なんだと、よくお坊さんが説いている。

 

―そして僕は今、ここで立ち止まっている。期待をしないこと、というのは理解がギリギリ追い付いているが、それをしないのと同時に、信じる、受け入れるとは何か

 

ありのままを観察し、どう「いる」かを感じ取る。佐渡島庸平氏は著書の中でそう書いていたが、何度反芻しても、心に染み込んでいかない。何かがそれをせき止めている。

 

そこで、もっといろいろな評価・表現を学ぶことから始めてみることに決めた。そのどれかがきっかけとなり、僕の心へ一気に入っていくかもしれないからだ。

 

そして、色々なnoteの記事やお坊さんの話を読んで、特に「なるほど!」と腹落ち感があった表現を、簡単に以下まとめていく。

 

まず、期待しないためには、他者のリアクションを前提としたものに”しない”方がラクという話が面白かった。

 

例えば誰かをお手伝いするとして、「ありがとうと言われる」ことを目標にすると、そこには自分勝手な期待が生じてしまう

 

あくまでも、「自分が親切にしたいからそうする」という風に、自分視点で自分主軸に構えておくくらいが、色々と丁度いいという話を読んだ。

 

こう構えておくと、自然と見返りを”期待しない”ことが可能となる。自分が好きでやっている、以上。ここにはついでに言うと、下心も生じにくいという利点がある。

 

その上で、期待は自分にも他人にもし過ぎないという風に、どこか青天井な理想論からは、意識的に距離を置くことを心掛けている人もいた。

 

思うようにならないことについても、自分の力量不足や他人の配慮不足を呪わず、「そういうもんだよね」と受け入れる。

 

そして、なかなか腹落ち感が伴わない”受け入れる”ということを、とても興味深く言語化した例にも出会った。それは、「どうでもいいと思うこと」だった。

 

本当の意味で他者・言動・環境を受け入れられた際は、感想として「どうでもいい」が出てくるものだ、と。すごく納得する。

 

自分がどうでもいいとラベリングしている物に気付くのは結構難しいが、確かにそれらのいずれも、僕は自然のこと、ありのままの何かとして、受け入れている気がする。

 

ということで、受け入れることは強く納得感を得た。では、「期待せず、信じる」とは、どう落としどころを探ればいいか

 

これもまた、1つ面白い考え方を知った。それは、「直近の出来事には期待をせず、ただし長尺でよくなることは信じる」というものだ。

 

これを塾の仕事に置き換えると、「やんちゃな子が1,2ヶ月で勉強への態度を改めることはないよね」という風に構えておく感じだろうか。

 

と同時に、「でも、1,2年も経てば、今よりも大人になるよね」と信じる。期待と信頼を分かつのが時間軸の差というのは、とても面白い指摘だと感じた。

 

そして自分の認知のバグも、ハッと気づくところがあった。僕が期待に振り回されているときは、その時間軸がとても短く、かつ理想論を通して対象を観ているのだ。

 

少し手が掛かる子が、1ヶ月程度で超いい子に変わることを期待し、そうならないことに強い憤りを覚える。なんとわかりやすいゴミ野郎ではないか。

 

「期待しない」ことをなるべく言語化するならば、「長いスパンでみた未来を信じ、今現在が思い通りにならないことは受け入れる」というところだろうか。

 

そして受け入れるとはどういうことかというと、自分の中で”納得する”のを通り越して、さらにその先、”どうでもいい”と解釈してしまうことだ、と。

 

ここを突き詰めれば、アドラー心理学の【課題の分離】にも繋がる気がするが、そこまで行くと話が脱線する気がするので、またの機会にしたいと思う。

 

ということで今日はこの辺で。

 

 

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