今日は少し時間があったので、自分の中で放置していたテーマをガッツリと勉強した。それは、いわゆる児童の問題行動との向き合い方だ。
間違えると癇癪を起こす、反射的に反抗する、感情がゼロヒャクで乱高下する・・。そういう生徒を見るにつけ、神経をすり減らす日々に、いい加減疲れたためだ。
なぜ苦手なのか。単に僕がHSP気質ゆえ、子供が時たま上げる金切り声や奇声が大嫌いというのもあるが、もっと問題は根深く、それでいて言語化されていないと感じる。
20以上のサイトを開き、Q&Aを読み込み、悩める保護者の悲痛な叫びと、それに対する専門家の回答を眺め・・・。20分程度それに没頭し、気が付いた。
優れた教育者が、そういった子供と向き合う専門家が、全員捨てている”あるもの”に、だ。その正体が分かった瞬間、僕は愕然とした。
大袈裟ではなく、自分の胃の辺りに溜まったヘドロがサラサラになってすーっと流れ出るような爽快さを覚えるほどに、だ。同時に血の気も引いたのだけど、だ。
今日はそんな気づきを、興奮とともに、記憶が薄らぐ前に書き殴っておく。
感情的に怒るのも皮肉で返すのもダメ。では、どうする?
いきなりだが、僕は現時点で、己の子供が欲しいとは全く考えていない。何なら色んなカルマを積んだ手前、遺伝子を残さず消えたいとさえ感じるくらいだ。
ただその最たる理由は、小さい子と同居なんかしたら、多分ストレスで気がヘンになると薄々感じているためである。(姪と友達の子供は平気だったが)
ストレスを抱えれば感情の爆発になる。喧嘩になり、衝突が絶えなくなる。その発散のためには、その子と刺々しさをもって戦うか、皮肉でいなすかの二択になりがちだ。
しかしそのどちらも、子供の精神面・情緒面の発達に暗い影を落とすことになると、専門家は警鐘を鳴らしている。
例えば親が感情的になり易いとき、子もそうなり易いのだ。シニカルな思考をする生徒の親は、同じかそれ以上にシニカルだったりする。不思議なものだ。
こんな風に、子供は親を写す鏡だと、よく指摘される。感情的に折り合いがつかないとき、他者と意見を異にするときに用いる手段は、そのまま子に伝わるようなのだ。
そこまで考えると、親というのはどこまでも手詰まりだなと、想像するだけで疲れてしまう。怒ってもダメ、皮肉を言ってもダメ。体罰はもっとダメ。
となれば、子供を預からせていただいている立場であるこちらは、もっと打つ手がない。ヘンに自尊心を折るやり方をすれば、クレーム待ったなしだ。
感情的に怒るのも、皮肉で返すのもダメ。これはいわゆる発達障害を持っている子達限定ではなく、心身が成長途上である子達、等しく全員にそうなのだ。
―ではどうすればいい?こんなどうにもならない状況に、答えは用意されているのか?
その答えは、あった。そしてそれは、プロの教員や専門家、そしてある程度の教育を終えた親御さん、全てが綺麗に同じだった。
答え。それは、上記のやり方をひっくり返したものだ。胸の内を代弁する。落ち着くまで待つ。その子のやり方を否定しない。自分で気が付くのを見守る、等々。
なんと菩薩様のような、慈愛に溢れた行動だろうか。力を加えて言動を変えさせることは絶対にせず、ひたすらに信じて見守ること。それが優れた教育者の思考であった。
佐渡島庸平氏のnoteにもあったが、親にさえ本意を見せない子供の心を開いた校長先生が取った行動は、つまり傾聴であった。ただ、その次元が全く違うのだ。
先を促さない。ただ受け入れる。信じる、待つ。見守る。力を加えて、言動を変えるようなことはしない。気付き、自ら学び、変えるのを期して待つ。
―というのを聞いて、「なるほど!これが求められる姿勢か!」と心底納得した・・・・のではない。むしろ僕はこれについて、どこか斜に構えた目線で捉えていた。
「それは私塾だと放任と受け取られかねないし、かつ待つことによって周りから『うるさい!』とクレームが来たら、身もふたもないじゃん」という風に。
本当にあるべき姿と、ビジネスとして保つべき秩序のはざまで、僕は勝手に揺れていた。そういうわけで、板挟みを妄想し、煩悶していた次第である。
だがこれは、あまりにも浅い理解だし、何なら曲解であった。本当に真の意味で見守れているとき、容認できているとき、それは絶対に放任にはなり得ない。
行動を操作せず、しかし放置もしない。この矛盾と折り合いを付けられる人は、何が違うのか。
ぶっちゃけまだまだ解像度は荒いけど、僕なりの考えをここからまとめていく。
プロが徹底して捨てるモノ。
プロが徹底して捨てているもの。それは、期待と理想と他者比較だ。その子の今と、その子の過去だけしか見ない。それが完全に、無意識下で実行されている。
自分にとって都合がいいように子供が行動を改める”わけがない”と期待と理想を捨てる。他の子はできるといった感想も、頭から無くす。そもそも発想の段階から消す。
この子は今、何を感じているのか。それを掴むため、自分の想いを言葉にして伝えて、その上で、その子の想いが語られるのをひたすらに待つ。その間、決して促さない。
自分がその子に寄り添うことで、他の子にどんな印象を与えるかということも度外視だ。あくまで今目の前にいるその子だけを、自分の世界に存在させる。
子供は欺瞞を全て見透かす。セリフが全て、自分のためなのか、大人が保身のために言っているのかは、言語化できないままに見抜いているものとさえ思われる。
期待も理想も他者比較も、その子にとっては迷惑な存在だ。自尊心をへし折り、恥の気持ちを増幅させる厄介ものだ。それを徹底して感じさせないという慈愛。
僕にそれができているだろうか。ふと湧いたその疑問を、別のメタが粉砕する。「できていないから苦しいんだ」。
今まで僕は、僕の目に迷惑と映る言動を取る子供たちを理解しようとしたか?守ろうとしたか?期待や理想のメガネをかけて、価値観を押し付けてばかりじゃなかったか?
僕は何と戦っていたんだろう。見守ることは放任とは違うんだ。すごく申し訳ない気持ちになってしまった。
「ごめんな」
そんなとき、日頃から僕にとって衝動・多動が目立つ子が塾にやってきた。正直感情の高ぶりが激しく、他の先生も手を焼いているところはある。
神が僕に、早速己の浅はかさを正す好機を、早速くれたんだと思った。彼の行動・思考全てを肯定すると誓って、僕はそっと彼の横に座り、授業の時間に臨んだ。
不意に手が止まり、席からエスケープする。そうなったら、僕も付き添う。間違えた問題に、感情が爆発しそうになる。それらの姿を、僕は肯定し、見守った。
他の子たちの相手は別の先生に任せ、僕は彼とだけ向き合った。この空間には僕と彼しかいないのだと、最初だけ意識すればよかった。自然と意識はそこに集中した。
突如始まった、今夢中になっているゲームの話も、遮ることなく聞く。彼自身が自分から課題に向き合うまで、僕は一切強制することをしなかった。
僕は自分の中の何かを我慢していたのだろうか。誓って言うが、違う。苛立ちなんて感じない。僕はただただ、目の前の彼と、等身大の僕とで、向き合っただけである。
そうして玉ねぎの皮を剥くように、偽善的な期待や理想を取り払ってみれば、等身大の彼がついに、段々と、見えてきた。僕のメガネが外れた瞬間だった。
彼は彼なりに、向き合うべき課題に向き合うべきだということも、自分がそれを上手にコントロールできないことも、きちんと認識していた。それがわかった。
他人への迷惑もどこかに感じながら、それでいて発散しないと狂いそうな自分の中の”なにか”と、必死に折り合いをつけようとしている。そうとまで僕は感じ取った。
そうやって孤独な闘いに取り組んでいた彼を、僕は自分勝手な考え方ゆえに、孤独にしてしまっていたのではないか。
あまりにも浅薄な自分の情けなさと、彼への申し訳なさで、目が涙で潤んでしまった。さりげなく拭ったが、それに彼が気付いていたかはわからない。
だが僕の中で一つ、何かのステージが変わったのを、確かに感じ取ることができている。見守るという言葉の意味が、新たな実感を伴って、更に深く腹落ちしている。
「ごめんな」。ただただ彼には、この一言しかない。許してくれるだろうか。そもそも僕を憎んでいるかどうかでいえば、まず間違いなくそうじゃないのだろうけど。
今後も正直、色々な生徒から、感情を逆撫でされることはあるのだと思う。僕は未熟だ。だから成長しなければならない。
心構えとして、僕はそのメッセージを許容する。未熟な自分も僕は受け入れたい。それだけは崩さないよう、誓っておく。
仮にその姿勢を怠慢だなんだと評されたら、僕はその人を見限る。あるいは徹底的に戦う。そういうところまで急速に腹が決まっていった。
伝える。待つ。信じる。理想と期待を取り払い、ありのままを見て、肯定する。
なにか自分の人生の標語が、また一つ見えてきた瞬間でもあった。
では今日はこの辺で。