どうでもいいが、僕は「就職先の幅が広い」という理由で、経済学部に進学している。単に適正云々であれば、人文学部も良かったとは思うが、当時はまだ浅かった。
4年間経済学部に籍を置いていたのだから、マネーリテラシーは他の人より高い。たまにそう思われるのだが、ところがどっこい、正直「そうでもない」。
もちろんミクロ経済やマクロ経済に関する教科書的な話はある程度理解しているつもりだが、もっとウェットなお金の動きに関しては、未だにどうしても感情が乗る。
例えば未納が続いているご家庭に、機械的な催促のメッセージを送るのは、すごく気が引ける。色々割引けばこちらが萎縮する必要など全くないとわかっているのに、だ。
あるいは都度講座を営業するのも、まだ少し引っ掛かるときがある。額だけなら太いので、2~3も講座を積めば、時には大台に乗ることもあるためだ。
頭では、これらの思考の不合理さはわかっている。わかっているのだが、それをまだ意識的に御せていない。
幼い頃からあちこちで植え付けられた「金≒どこかダーティなもの」という刷り込みが、どうやらまだ抜けきっていないらしい。
それを自覚しているがため、意識的にそれを捨てる努力を重ねてはいるが、ブレークスルーはまだ起きていない気がする。しかし昔より確実にマシになってきている。
今日はそんな途中経過のお話である。
「金が尽きれば夢は終わる」
お金に関する洗脳は、学校や親から解除してもらうことは望むべくもない。どの本を読んでも、そんなことが書いてある。
僕の両親がそうだった記憶は全く無いが、お金を稼ぎたいという欲はとてもはしたないという価値観を植え付けられる人は、世の中の圧倒的大多数に当たるという。
基本的に正直お金は持っているに越したことは無いのだが、なぜかエンタメに登場するお金持ちはステレオタイプとして、嫌で傲慢な性格の者が多い。
夢のためにお金を語れば銭ゲバだと言われる。それによって誰が豊かになるわけでもない。でも叩かれる人も叩く人も後を絶たない。お金はあった方が絶対に良いのに。
・・・この辺のことと僕が本気で向き合うきっかけになったのは、前職をなんだかんだで退職した後、お金が無いと何もできないという思いを骨の髄まで味わったからだ。
勤務期間がわずかに足りず失業手当の申請が下りなかったため、雀の涙ほどの貯金を切り崩しながら生活した。
アルバイトをしようにも、心身が消耗しきっており、活動する意欲が湧いてこなかった。目に見えて減っていく残高の数値、そして生産性の無い自分への焦燥。
ほとほと困った僕は日雇いで肉体労働に手を出したが、いわゆるガテンな価値観・風土に全く馴染めず、すぐに登録サイトからそれを抹消した。
クラウドワークスに登録して小銭を稼いだが、それでもやはり限界がある。実家と祖母の家を行ったり来たりしながら、無価値な自分をただただ眺め続けた。
その後は、これまた不思議な縁で今の仕事に行きついているのだが、その経験を通じて心底学んだことは、今も全く薄れずに残っている。
お金が無いことは、人間を徹底的に消耗させる。こういう生活を経ると、「清貧マンセー」など口が裂けても言えなくなるほどだ。
お金はある方がいいに決まっている。稼げない人より稼げる人の方が優れているに決まっている。これらは道徳や倫理で煙に巻こうとしても、絶対に隠せない真理なのだ。
―この部分を書いているとき、たまたま友人から、ある悲痛なLINEが届いた。身体を壊して休職を申請したところ、そのまま退職を宣言されたそうなのだ。
僕は彼を心底心配する。職を失い、収入減を断たれ、健康も損ねている今、彼のメンタルは簡単に蝕まれてしまうのではと危惧しているためだ。
・・・と同時に、無条件で彼を支援できるほど、僕自身に収入が無いことも歯痒く思った。改めて思う。お金とは交換ツールであり、選択肢であり、やはり力だ。
例えば僕の両親が病に倒れた際、お金が無ければ治療を施すことができない。善意で病は治らないのだ。そう考えると、僕はもっとお金を稼ぎたいと思った。
嫉妬や誹謗中傷による擦過傷を負うことはトレードオフだ。それを食らうことで選択肢を残すか、それを避けるために選択肢を消すか。
”お金”に纏わる後ろめたさを取り除くのは本当に時間が掛かる。 ―でも確実に、前進はしている。
今はその手応えをもって、良しとしておこうと思う。
では今日はこの辺で。