精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「言い出しっぺ」が”損をする”仕組みを破壊したい。

宿題の出し方から仕事の依頼まで、他人が絡むことにおけるインセンティブの設計や機能には、かなり敏感になるよう心掛けている。

 

自分にも相手にもトクとなる行動を促すためにはどんな報酬を用意し、どう声掛けを、どのタイミングですればいいか。これが戦略ゲームみたいで面白いからだ。

 

その反動というわけではないが、自分が何をされたらやる気を失うかということにも、すごく客観的というか、他人事として観察するクセが付いている

 

「なるほど、人はこういう扱いをされたらやる気を失うんだ、へー」という発見を得た方が、今後に活かしやすい。そう割り切れているんだと思う。

 

そんな僕が最近何度も食らう「やる気ぶっ壊しあるある」が1つある。それは、「言い出しっぺが結局損する法則」だ。

 

今日はこれについて記事をウダウダと書いてみようと思う。

 

 

気付いた人がやりましょう、という標語のダークサイド。

 

僕は「気付いた人がやりましょう」という標語が、日増しに嫌いになっている。なぜかと言うと、気付けば気付くほど、僕の仕事が増えていくからだ。

 

自分で言うのもなんだが、僕は結構人のヌケモレに気が付く。だからさりげなく指摘することがある。だが不思議なもので、大抵その方々の腰は重い。

 

他の人からも指摘が入ることがあるが、結局それを負い切ること自体が手間なので、不思議なことに、最初に気付いた僕に打診がよく来る

 

そういうのが連続すると、もう指摘するのが面倒になる。なぜかと言うと、つまり自分がやることになるとわかるからだ。

 

だから「やりますね」と伝え、とっとと完了させる。今のところそれによって本来自分がしたいことを阻害されている感覚は無いが、程度次第ではそうなる気もしている。

 

そんな今日も似た構図の出来事があったが、意図的にそれを無視し続けてみた。すると今度は別の人が手を挙げてそれに対応していたので、一応は解決するようだった。

 

しかしこれがどうにも不健全だという感覚は否めない。なんかバグってんなと、やるせない気持ちになってしまう。

 

正しくは、気付いた人が「振りましょう」だと思う。

 

なぜこんな出来事が頻発するのか。理由の心当たりは一つある。それは、責任・担当の所在が曖昧であるためだ。

 

これは誰がやるのか、あれは誰がやるのか。明文化して線引きするのは難しいと確かに思うが、だからといって曖昧にしっぱなしだと、すごく疲れる。

 

【リーダーの仮面】に書かれていたことを引用すれば、これは最もストレスが蔓延する職場環境だとされており、放置するのは確かに否めないという感想を持つ。

 

ここはどうすれば是正できるのか。この立場から見えないこともあるが、仕事の依頼を出せる権限がある人が都度キャッチして、それを振るのが良いのかなと考えている。

 

それか、率先して仕事を実行する人を優遇するというのも良いかもしれないが、不思議とこういう歩合制のような体制が機能するとは、あまり考えられない気がする。

 

とりあえず、考えてもあまり答えのようなものが出てこないのだが、善意・好意に甘え倒すような状況は、個人的にあまり好ましくないと捉えている。

 

大袈裟かもしれないが、僕は最近、「自分がやります!」と手を挙げていくのが億劫になっていく一方なので、動機づけというのは現金だし、流動的だなとも思える。

 

真面目に生きてりゃ馬鹿を見る。おそ松くんのOP曲の歌詞が、今になってすごく腹に染みてくる。

 

では今日はこの辺で。

 

 

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村 ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村