授業に慣れてくると、『決めてねーけど何しようかな~』という気分で教室に入りたくなることがないだろうか。今日はこれを『アドリブ授業』と呼ぼう。
『特にすることを決めずにフラっと教室に入り、授業を行える講師こそプロだ!』という意見もあることだと思う。
僕はこれについて猛烈に反対する。基本、アドリブ授業に良いことはほぼ無い。
今日は僕がなぜこれほどアドリブ授業に反対するか、その理由を愚痴みたく書いてやろうと思う次第である。
そもそも論。
それは、僕自身がアドリブ授業をするたびに、大変痛い目に遭わされているためだ。不可抗力のこともあれば、手間を割くのが面倒だったというのもある。
まずそもそも、『おぉ、この授業はハマった!』という、指導側としては心待ちにしている感覚。僕はそれをアドリブ授業で得たことは一度もない。
さてさて。
アドリブ授業と言う少しだけクールな響きに潜む罠は何か?以下、それを項目ごとに述べていく。
雑な板書にしかならない。
プロの棋士の対局を見ていると、決まりきった局面ですごく悩んでいる場面が多々見られる。
手を間違えれば後々自分の首を絞めたり、逆に正しければ相手の陣形に風穴を空けることにもつながったりする。
だからこそ、たかが一手、されど一手なのだろう。
授業も似ている。これは英語を教えていて特に思うのだが、例文・例題選びはかなり慎重になった方が良い。
導入のつもりで書いた英文が、実は不規則変化の動詞のため書き換えができず詰むとか。
逆に、例文を指導内容に上手く絡めさせれば、少ない労力であらゆる文法の説明へとリンクさせることも可能だ。
これは熟考なしに閃くとは思えない。やはり事前に準備しなければキツいと思う。
罪悪感がある。
ネガティブ思考が強い僕はなおさらなのだが、準備が手ぬるい状態の授業を終えた後は、言い知れぬ罪悪感を抱いてしまう。
『マズい説明をしてしまったかも』『もっといい説明があったはず』といった思考が脳内を埋め、どんなご飯もマズくなる。
この罪悪感が自分の弱点ばかりに目をむかせるトリガーとなり、気づけばスランプが始まることもしばしばだ。
適当な授業をした結果、生徒も自分も幸せになりはしない。それだけは確実であろう。
間違った説明や語句を言ってしまう。
これは特に社会で多いのだが、得意科目の英語でも、油断するとやってしまう。
アドリブはそれを特に加速させる。
説明とはある種の流れに沿って行うもので、その場その場で考え継ぎ足すというのとは、とりあえず僕においてあまり合わない。
次の流れに意識が向いていると、細かい説明(言い回しや比喩)へ向けられるリソースが大きく削られる。
結果、突然の物忘れなどを引き起こしたり、誤った知識や意味不明な説明を口走ってしまったりすることになるのだ。
うーむ、やはり不健全である。
では、どこまで準備しておくか?
とはいえ、全ての授業に万全の状態で臨むことは、ある種机上の空論だ。
準備0なのが問題であるだけで、短時間でも備えられれば話は別。時間が無いときでも、僕はなるべく以下のことのどれかは行っている。
・指導箇所のテキストを一読。
・好きな参考書の該当箇所を一読。
・過去の板書計画を確認する。
・『どこまで行くか』というゴールを設定する。
さてさて。
昔読んだ本に書いてあったのだが、『分かりにくい授業』が引き金となり、学級崩壊へとつながるケースもままあるそうだ。
これは教師にとっては由々しき問題だし、かといって塾講師にとっても他人ごとではない。
アドリブの誘惑に負けそうになったら、それをグッとこらえてほしい。切にそう思う。
では、今日はここまでということで。