精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

『人の気持ち』とか、正直わからないままでいい。

合格発表。いよいよこの時期が来たかと、毎年胃に穴が空きそうになる日である。(実際もしかしたら空いてるんじゃね、ってくらい痛むこともある)

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そして、良い報告もあれば悪い報告もある。100%の合格率は勿論出したいが、現実という名の壁に毎度毎度跳ね返される。

しかも、往々にして頭にこびりつくのは、『悪い結果』の方だ。正直『良い結果』が出ても、『おめでとう!終わり!』なのである。

 

―しておけば良かった過去に執着し、今どんなに辛い気持ちだろうかと考えては、こっちもまたそれに潰されそうになる。

 

人の気持ちが痛いほどわかるばかりに、その苦しさまで受信してしまう。『悪い結果』の報告が来れば来るほど、コチラの心が壊れそうになる。

 

・・・と考えていたのは昔の話。

 

今は正直、『人の気持ちって考えてもわからないよね』と思っており、以前に比べ心にのしかかる心的ダメージは大激減した。

 

これは単に図太くなったというより、自分なりに色々考えた結果、自分に合うロジックが組み立てられたから、というのがその理由。よくわからない。

 

そこで今日は、講師・教師に多い、『人の辛さを一身に背負いがち』なヤサシイあなたに向けて、僕の私見を書き殴ってみよう。

 

 

その人が何を考えているかなんて、まず『わかりません』。

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今から、かなりめんどくさい話をしてみる。

 

例えば、↓の人はどんな気分だと思うだろうか。

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恥ずかしい?悲しい?悔しい?

 

―正直解答は十人十色だと思う。そしてそれこそが真実だと思う。

 

つまり、動作や声色、そして自分の経験則等を通じ、推測するしかないのである。僕らの限界は、『多分こうだろう』という当てずっぽうなのだ。

 

小説の読解問題だって、『主観』で解いたら大体外す。だが、『主観』だろうが『客観』だろうが、結局は『推測』なのだ。

 

しかも、当の本人が『いやぁ、嬉しいんだよ』みたいなことを言ったとしても、それが真実かどうかは分からない。別の感情を隠している可能性だってある。

 

こんな風にセリフと本心が別なことなど、むしろ一般的な話ではないか。例えば『ツンデレ』とか最たる例であろう。

 

あなたはその人じゃない。そして、僕も生徒ではない。僕らの限界は、気持ちがわかることではなく、気持ちをある程度の誤差以内で推測することなのだ。

 

だからこそ、『辛いに違いない』とか、『僕を憎んでいるに違いない』なんてのは、ハッキリ言うがただの思い込みだ。

 

そして、『辛いだろ?』とか、『お前、俺を憎んでるだろ?』と尋ねても、正直に答える方が極めて稀だし、本心も結局分からない

 

―この辺まで眠れない夜に考えたあたりで、僕は悟った。

 

「人の気持ちとかゴチャゴチャ考えるだけめんどくせぇなぁ・・」

 

加えて、人に好かれる行動の大半は無意味だ。八方美人に尽くしたところで、八方美人な行動を嫌う人だっている。どうにもならない、めんどくさい。

 

こちらが相手の気持ちをどうこうできる、理解できるだなんておこがましい。良いことはない。30手前にして、悟ってしまった。

 

―だが、これが悪いことだと決めつけるのも尚早である。むしろ、これで冷静にスタートラインに立てたとさえ感じる。

 

以下、それがどういうことかを述べていく。

 

鈍感2.0を目指して。

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僕がもはや座右の銘レベルで心に刻んでいる言葉がある。それは、

 

『感情論が物事を解決することは絶対に無い』

 

というものである。(出典:多動力↓)

 

これだけ聞くと、『主観で物事を決めつけて、頑として曲げず、他者の意見を無視して、感情で解決しようとする人』が浮かぶと思う。(敢えて例は挙げないが)

 

―ただ、『感情論』とは、こういう目立つ場面に限定したものではない。落ち込む生徒の気持ちに寄り添う(と思い込んでいる)時、それも大体『感情論』となる

 

例えば、失敗し落ち込んでいる生徒がいたとする。話を聞く。『辛いね・・』とか、『この失敗を・・』みたいに励ます。そして特に何も変わらない。

 

さながら、『風邪』を引いている患者に、『さぞ、しんどいでしょう・・』と同情し続けるのに似ている。ツッコミどころしかない。やはり必要なのは具体的な策だ。

 

勿論、当の本人が、『色々な感情のはけ口の相手』を求めていることもある。そういう時は、黙って聞いてあげればいい。ただしこちらがそれに染まる必要もない。

 

『幸せになる勇気』にも書いてあったが、『悪いあの人』『かわいそうな私』を軸にした話は基本何かを解決することがないので、聞き手はスルーが望ましいという。

 

大事なのは、『これからどうするか』を悩む人に問うことだ。具体的な策を自分で言わせることが要である。

 

―こんな風に相談者の目線を前に向けさせたり、数年後のプランを修整する策を伝えたりすることの方が、こちらに求められる仕事に違いないだろう。

 

仮に一緒に泣いてほしいと言われても、僕は絶対に断る。冷たいと言われても結構だが、一人で泣いて、落ち着いたらおいで、とだけ言う。

 

『人の気持ちがわかる、わからねばならない』と強く思い込むと、この辺の行動は絶対に取れなくなる。しかも下手すれば、自分が鬱になる。

 

だから僕は、『人の気持ちはわからない』という前提に立つ。というより、『わかった気にならない』と意識する。

 

これは建設的な話をするためにも必要だし、自分の心を守るためにも必要なのだ。ある種のサイコパス的考え方を自分に移植する感じである。

 

人の気持ちについて呻吟することがあるのなら、いっそ『わかるわけねーよ』と悟ってみてはどうだろうか

 

こう構えることで、僕は不思議と自分の内に、ある種の『余裕』を見出していると伝えておく。

 

終わりに。

 

―こんな記事を書いたということは、ご察しの通り、『良い報告』も『悪い報告』も受けたということである。あぁ、胃が痛い。酒を飲みたい。

 

そして僕は天性の冷血人間ではないので、ダメージはどうしても0にはならない。だが、年々それが0に近づいている気はする

 

現状、『あの生徒にはこうフォローの話をしよう』とか、『入試傾向を見て、次の受験生には早めにこの技術を仕込んでおこう』という先のことを考えている。

 

 

僕はそれで正解と考えているし、そう思うしかないとも考えている。

 

最適解を出すために、僕はやっぱり『人の気持ち』とか、正直わからないままでいい。

 

皆さんはどう思われるだろうか。

 

それでは今日はこの辺で。

 

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