今日は何か自己矛盾を起こしそうなテーマについて書いてみる。
僕自身は21歳の頃から急に読書に目覚め、以来起きてすぐと寝る前に、ほぼ必ずパラパラと読書するようになった変態だ。
このブログでも何度か読書感想文(笑)を書いたことがあるので、僕が相当な読書信者と思われている方も、もしかしたらいるかもしれない。
確かに世の中、『本を読むのは至高!最高!天才の特徴!』みたいな風潮があり、本を読まない子供がいれば、ほぼ例外なくその保護者はそれを悩んでいる。
―だが、断言する。
『知識』や『見識』を得るという『目的』を考えれば、無理して『読書』にこだわる必要性は無い。
今日はそれについて書いてみる。
『読書』が"できない"ケースもある。
僕は指導している生徒たちに対し、『読書』を押し付けたことは無い。
校舎にオススメの本棚を設置してはいるが、そこには『読書を強制するものではありません』というプリントを貼っている。
つまり、僕は『読みたければ読んでも良いよ』というスタンスであり、『読んでるヤツが偉い』なんてバカみたいな価値観を広めないように注意している。
―この考え方に至った理由は、やはり『ディスレクシア』の存在を知ったことが大きい。要するに、生まれながら『読む』ことに困難を覚える人たちもいるのだ。
※一例↓
もしうっかり、こういった困難を抱えている人たちに、無邪気に読書を薦めたらと思うと・・・。正直、どんな心の傷を負わせるかと怖くて仕方がない。
また、ここまで極端でなくても、そもそも『活字』が苦手な方々も相当数居るはずだ。
そういう人たちは『読書家』より"下”みたいな風潮が僕は大嫌いなので、そういう雰囲気を出すことがないよう、自分にも生徒にも意識を張っている次第である。
『読書』の『目的』を考えよう。
僕はなぜ読書をするのかと言われれば、即座に『最短で有益な知識を得たいから』という返答をする。
実際、僕はあまり娯楽で本を読むという感覚がなく、小説も数えるほどしか読んだことが無い。
つまり、僕が本を読む目的は、『知識を得る』ことにある。同様の方は、割と多いのではなかろうか。
となれば、『目的』がそうなら、『手段』は他にもあると言える。
例えば、本の内容を読み上げるというサービスも存在し、かつコンテンツは相当充実している。
また、『Youtube』にも、わかりやすく色んなことを噛み砕いて説明してくれる方々は非常に多い。(それこそ本1冊分の知識が10分の動画にまとまっていることもある!)
そして、大抵の名著は漫画にもなっている。活字でなくても、触りは学べてしまうのだ。
すなわち、世の中は『知識』を得るツールに溢れている。
そういう意味でも、もし色々と『読書』が合わないのなら、その『目的』に立ち返ってみるのが健全だと感じる次第である。
終わりに。~僕はこれからも本を読むけれども~
尚、だからと言って、僕は『読書』を止める気はさらさらない。理由は簡単で、それが自分に合っているからだ。
要はあれが最高であれはダメみたいな話ではなく、別にどんなチャンネルを使って頭に入れようが、その人に合ってればそれでいいじゃんというただそれだけなのだ。
・・・まさかの機械が作業を終えるまで帰れないという変な状況下、深夜テンションで色々書いてしまった。
今日は読書せずに寝るかもな。と言いつつ、多分読むんだろうな。僕の枕元には、読みたい本が積んである。
―そんな風に、各人にぴったりの知識を入れるお供が、皆さんにも見つかることを願っている。
では今日はこの辺で。