AIがあらゆる職業に取って代わり、単純作業が軒並み奪われるという悲観から、以下のセリフの価値が暴騰している感覚がある。
『まずは自分の頭で考えろ!』
「ここがわからないんです」
→『まずは自分の頭で考えろ!』
「なんでこのルールがあるんですか?」
→『まずは自分の頭で考えろ!』
「コツを教えてください・・」
→『まずは自分の頭で考えろ!』
・・・・・。
こういう文脈でこのセリフが登場するとき、同時に『安易に答えを探す作業』全てを否定するニュアンスが含まれる。
答えを見るのは論外。ネットの検索もダメ。何なら読書も非推奨。誰の力も借りず、自分の頭で答えを作り上げて初めて一人前なのだ!!
みたいな。
―ハッキリ言うが、そのロジックがそのまま通じた時代は、インターネットの登場と同時に終わっている。『頭を使う』の意味合いが、そこを境目に変わったためだ。
チクリと言えば、やたらに『頭を使うこと』ばかり強調する人がいるのなら、多分一番頭を使わねばならないのはその人だろう。それくらい冷ややかに思うところはある。
今日はそれについて、私見を論じてみよう。
『車輪の再発明』。
主にIT業界等で使われているという『車輪の再発明』という言葉をご存じだろうか。 詳しい物語も面白いのだが、今回はその意味だけを紹介する。それは、
誰かがすでに生み出した何かを自分で生み出そうとして時間を無駄にすること
である。少し考えればわかるが、『自分で考えた』結果の大半は、悲しいかな『車輪の再発明』である。
超乱暴な例え話だが、頑張って『二次方程式の解の公式』を0から証明したとしよう。
(※平方完成と文字式の計算ができれば、多分あなたもイケる)
悲しいかな、これそのものは2000年以上前から知られていたことらしく、今取り組んだことは、既に『わかっていること』を、時間をかけて見つけたに過ぎない。
もっとも、ここから『いやいや、この思考過程こそが大切であり、だからこそ考えることは大切なのだ!』というロジックに繋げることは可能である。
だが、こういった『考え方』そのものが価値を持つパターンは、実際の所かなり稀有ではなかろうか?
例えば事務作業を速く行う方法について、その意義や原理から考え直すとか、もはやアホらしくて仕方ないではないか。
何でもかんでも『頭を使え!』と言うのは、変化がまだまだ遅かった時代なら通じた話かもしれない。
しかし今は、大抵の場合で時間の無駄になるリスクを秘めている。なぜかと言えば、自分があれこれ考えている間に、技術や周りがどんどん先に行くためだ。
特に歴史の語句と言った『知ってるか知らないか』だけが問われる知識は、頭で考えるだけ時間のロス、引いては無駄となる。
その辺りの線引きは、しっかり認識したい。それもあって、僕は無責任に『自分で考えろ!』とは、恐ろしくて生徒に言えない。
では、これからの『頭を使う』の意味合いとは?
ただし念押ししておきたいのだが、『頭を使うこと』そのものは、これからの世の中においてもマストである。
あくまで『車輪の再発明』のパターンが無駄になり得るだけであり、僕が思うにやはり"考える"時間は大切だ。
以下、例え話で説明する。
今は料理で言うところの、材料とレシピがあちこちで簡単に手に入る時代だと言える。つまり、それが読めれば、誰でもある程度のクオリティが確保できるのだ。
言い換えれば、今までは迂遠な修行が必要だった調理法もコツも、断然短期間で習得することが可能になった、と言える。
―となれば、ある程度の技術や知識をさっさと得てしまったら、そこからは『オリジナリティ』を追求することが要となる。
いわば、知識と知識を自分なりに繋げるという試行錯誤だ。当然そこには失敗も生まれるし、ある程度の思考も絶対に求められる。
やはりというか、今の世は『何を買うか』よりも『誰から買うか』であり、『その人らしさ』に如何に他者が共鳴するかが鍵である。
そして『その人らしさ』というアバウトだが大事な何かを生むものは、僕が言うのも変だが『既知の知識をある程度繋げた先』にあると感じている。
そう考えると、なおさら『先人が遺してくれた知識』を0から再発見する時間は無いと言える。怖い話である。
―では、これを普段の学習にどう生かすか?
かなり難しいが、例えば得た知識を『どう伝えようか?』と考えるだけで、その効果は大きく変わる。
もはや知っているというただそれだけ(物知りと言われる方)であったり、そこに至るプロセスをなぞることであったりは、やはり価値が暴落していると思う。
得た知識を組み合わせてどう使うか?
―難しい話だが、生徒にはそれを重視して伝えたいし、それが問われる良問にたくさん触れさせてあげたいと考えている。
終わりに。
―ということで、ある意味思考停止ワードである『まずは自分の頭で考えろ!』について、割とボロカス言ってみた。
誰かに頭を使わせれば自分はサボれる。意識してようがしてなかろうが、そんな意味でこの言葉を生徒に吐いていたのなら、それは結構ギルティである。
知識を効率的に楽して頭に入れることについて、何も後ろめたいことはない。それはスタートラインに立つための行為に他ならない。
レースはある程度知識を入れた先から始まる。それを忘れてはならない。
だから僕は、悪びれずにテクニックを調べ、他人の授業を真似し、良書を読んで、授業で使う。ただし、自分の言葉で。
ここに書いたことが、少しでも多くの『無駄』を減らすことに繋がることを願う。
では今日はこの辺で。