今日はタイトル通りのちょっぴりダークなお話。
先日、ある集団授業について、あるアイデアを出し合う場面があった。僕はいの一番に、『勉強法の授業』をさせてほしいと提案したのだ。
だが、それは結構微妙なリアクションで反対された。聞けば、特に勉強ができない生徒には、勉強法の授業が響かないというのがその理由であった。
代替案として、『特定の単元をできるように特化』とか、そういう案が出た。その時はマスクをしていたので多分バレてないが、僕は思い切り苦い顔をしてしまった。
今日はその際僕が抱えたジレンマについて、軽く書いてみる。
お腹が空いている人に何を伝えるか?
よくある話に、『お腹が空いている人には魚ではなく、その獲り方を教えよう』というものがある。
これの意味するところは、目先のトラブルだけを解決するのではなく、それを含む全体的な解決方法を伝えるという感じだ。
勉強の例で言えば、分数の計算ができない生徒にそれの解き方だけを教えるのではなく、計算全般の訓練方法をレクチャーする具合だ。
僕はこの考え方のが双方得られるものが多いと、結構信念を持って考えていたのだが・・・。
勉強が苦手な生徒にそれを言っても、当人からすれば充実感がないのだという。いわばそれは、『勉強できる人のロジックだ』と看破されてしまった。
苦手な人にとっては魅力に乏しい。ゆえにコンテンツとして微妙だという話だった。
・・・だからこそ、付け焼刃であっても、解ける問題を増やしたり、あるいは苦手でも解けるレベルの問題を提供し成功体験を伝える方がマシ、という帰結である。
正直、これそのものの論理には、言われた今だと僕自身納得している。ビジネスの目線で言えば、そらそうだなぁ、と。
―だが、納得しつつも、どこか背徳感や罪悪感を僕は抱えてしまうと思う。何故かというと、僕らの顧客は、勉強が苦手な生徒だけではないからだ。
集団授業で括ることは、できる層かできない層、どちらかを置き去りにすることに他ならない。
ならば習熟度別のクラスに分ければ済む話だが、人員の関係でそれは難しいという。うーむ、ジレンマだ。
勉強法ではなく付け焼刃的な解法を伝えるだけで、本当に良いのだろうか?(たとえそれが勉強苦手な生徒であっても)
僕は最終的には、生徒たちは僕のことなど忘れて、自信をもって自分の好きなように好きなことを学べるような大人になってほしいと感じている。
だが苦手な生徒が満足するような方法を取り入れ続ける限り、それは生徒から講師への依存を生むだけだと感じる。
しかしこの関係は、ビジネス面で考えるとある種の成功である。
―どちらにせよ、誰かがジレンマを覚えるのだ。こないだ知った、『不可能なトライアングル』という語句を思い出す。
となれば、このジレンマを抱えるべきは顧客の満足を優先するため、サービスの提供側であるべきだし、上司よりは、部下であるべきだろう。(詭弁だが)
だから僕は、そこから意見を戦わせることはしなかった。僕の視点や経験はまだまだ狭量だ。ゆえに、経験値豊富な人のアイデアに従う方が正解だろう。
しかし、このもどかしさは消してはならないと感じている。いつかふいに、これが新しい形の授業を生むかもしれない。でも、生まないかもしれない。
非常にもやもやしているが、これは時たま思い出したように語ろうと思う。
―ということで、考えが全くまとまっていないため、支離滅裂だとは思うが・・これが正直な脳内のため、一切修正せず公開してやろうと思う。
何をどう思っていただいても構わない。ただの殴り書きですし・・・。
では今日はこの辺で。