精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

やはり、所属するコミュニティを1つに絞るのは愚策。

ここ最近、『人気』についてよく考えている。

 

例えば、今中四国を中心に大炎上中の『へずまりゅう』。評判はすこぶる悪いといって間違いないだろうが、実はかなりの人気者でもあるという。

 

問題となったオフ会の動画は方々に流出しているが、その盛況っぷりを見ても何となくわかる。

 

一方、もある。そのケースは、芸能人に非常に多い。

 

笑いや演技の腕で高く評価されても、一発のスキャンダルで表舞台からサヨウナラなんてケースは、枚挙に暇がない。

 

つまり、実は人気が無かったということなのだ。真に人気を勝ち得ていれば、スキャンダルであっても、致命傷とまではいかなかったのではなかろうか。

 

―この違いはなんだろうかと気になっていたのだが、最近たまたま複数の本に出会ったことで、それにパッと気が付いた。

 

また同時に、日々の生徒の様子や、学校で起きる悲しい事件を鑑みて、タイトル通りのことを考えるようになっている。

 

『やはり、所属するコミュニティを1つに絞るのは愚策。』

 

今日はそんなお話。

 

 

ビンの中の台風。

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悲しい話、『いじめ』はゼロにはならないようだ。それによる悲劇は連日起きているようで、それはTwitterや地方ニュースを見ればよくわかる。

 

彼ら彼女らの心中を察することは僕にはできないが、仮説を立てて、それにより悲しい犠牲者を減らす一助にはできるかもしれない。

 

まず、『嫌われる勇気』にも書いてあったのだが、悩んでいるとき、苦しいときは、より大きな組織に目を向けるべきという教えがある。

 

例えば、自分が所属する『学校』で爪弾きに遭っているなら、そこから飛び出し、逃げ出せばいい、という感じだ。(実際、こう提唱する著名人も多い)

 

そして、自分の居場所を新たに探す、或いは創るべきという話に進んでいく。それか、心の傷が癒えるまで、充電しても良いとさえ、僕は思う

 

―ここからは僕の推測だが、最終的に命を絶つことを選ぶ人たちは、1つのコミュニティや価値観しか、人生において築いていない場合が多いのではなかろうか。

 

本当は学校という閉鎖的で限定的な世界の外には、無数の『社会』が広がっているのだが、それに気付かないとどうなるか?

 

学校で憂き目にあった瞬間から、その人の『世界』は敵だらけになる。そして、救いが無くなる。何故かというと、その人の中に他の世界という考えは無いからだ。

 

また、価値観が一つしかない場合も同様だ。『義務教育における』問題児としてハンコを押された瞬間から、その人は自分を『価値が無い』と考えてしまうかもしれない。

 

・・勉強ができることと仕事ができることは別なように、他の尺度の存在さえ知っていれば、そんな悲しい帰結は防げるのになぁと、惜しくて仕方がない。

 

さて。

 

ここまで下ごしらえしたところで、冒頭の話に戻るとする。

 

なぜ、『人気』の有無と『コミュニティを1つに絞るのが愚策』という論が結びつくのか?

 

実はこのことは、『へずまりゅう』と『ゴシップを喰らった芸能人』のケースで、非常によくわかるのだ。

 

『人気』には2種類ある。

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ここからもまた持論だが、僕は人気には2種類あると考えている。

 

①世間の理想を体現することで得られるもの

例)各学校の秀才、有名大学在学生、一流企業の社員、成績優良者、アイドル、モデルなど

 

②自己主張の結果、同志が集まり得られるもの

例)各Youtuber、一部の芸人、メディアに出てこない人気者など

 

てな感じ。ちなみに、『ゴシップを喰らった芸能人』は①であり、『へずまりゅう』は②である。

 

―これがどう違い、何を意味するのか?以下論じてみる。

 

まず①のケースは、非常にわかりやすい人気者であり、これを死守する限り敵は少ないという特徴がある。

 

また、数多の人間がこぞって目指す(或いは目指すことを強制される)像であるとも解釈でき、いわばレールに完璧に乗っている人生であるとも言える。

 

僕はそれができなかった人間なので、そちら側に行けた人は素直に羨ましいと思うし、尊敬だってしている。だが、その危うさにも、同時に目が向いてしまう。

 

それは、レールから外れた瞬間、培った人気・評判・自尊心の全てを失うというリスクである。

 

芸能人の例を見れば簡単に理解できる。どれだけチヤホヤされようが、不倫だのなんだのの汚点で一発退場。人気も評判も、一瞬で消え去ってしまう。

 

また、非常に悲しいのだが、大学受験や就活に失敗して自死を選ぶのもこのケースだろう。汚点が出来た時点で、自分に価値を置けなくなる。涙が出そうである。

 

得てして学校等でいじめのターゲットにされるのは、①からよくも悪くもあぶれた人間だ。『みんなとは違う』というクソみたいな理由。

 

そして①の価値観に終始する限り、その地獄は終わらない。価値観も組織も、当人にとってはそこしかないからだ。

 

まさに無間地獄である。それを終わらせる方法として最も辛い手段を採る人間が居るのも、無理はないのかもしれない。

 

―この残酷な話を踏まえると、①になりきれなかった人にとっては、②のケースこそが救いになるのは自明だと言える。

 

ということで続けて、【②自己主張の結果、同志が集まり得られるもの】について解説する。

 

まずこっちは、少なくとも何かのコミュニティでは落伍モノや厄介者として扱われているのがほぼ前提だ。

 

しかし、それを恥じることも隠すこともなく、『俺はこういう人間だ!』『俺は俺が面白いと思うことに邁進するぞ!』というのをガンガン発信する

 

―すると、それを面白いと感じたり、実は自分もそうなんだと表明したりした人が、その人に引き寄せられる形で、コミュニティが創られていくのだ。

 

例えば、学校教育に異議を唱えると、PTAや優等生から多分袋叩きに遭う。だが、その違和感を抱えている人は、意識無意識に違いはあれど、絶対に一人ではない

 

それを舌鋒鋭く表明するとどうなるか。ある価値観からは叩かれるが、同意する者からは称賛されるという不思議な現象が起きる。

 

この究極の例が『へずまりゅう』だと感じる。彼は間違いなく、法治国家における爪弾きものだ。僕も法律を破りまくる部分は流石に擁護できない。

 

―が、そんな彼の言動に引き寄せられる人間もいるのだ。分析は無粋だからしないが、何か共鳴するところがあったのだろう。

 

推測だが、彼は起訴されても、何なら実刑を受けても、その姿勢を崩さない限り強いファンが付いてきてくれるのではと感じている。

 

―ということで、ここまで書くと、色々と繋がりがみえてくる。

 

完璧に理想像を歩む①は、それが守れている限りは強いが、ワンアウトで退場させられる可能性が高い。

 

一方、最初から我が道を行く②は、初めからそういう価値観から無縁なのである種無敵の存在。

 

ただし、構築には痛みを伴う。

 

という具合だ。

 

―となれば、最初から②を創って、そこにだけ属せば一番楽だと言われそうだが・・・。実はそんなにシンプルな話では無い。

 

②のつもりで創ったコミュニティが、いつの間にか①にすり替わっているケースもまた、非常に多いのだ。

 

どういうことか? 

 

人間は、どうしても変わる。僕自身、10年前の自分の日記を読んでいると、『誰だコイツ・・』と思うくらい、思考が変わっているのに気づかされるほどだ。

 

―となれば、自分に正直な部分を発信していたはずが、いつの間にかそのコミュニティ創設時の自分に合わせて少し脚色が入ることも、想像に難くないはずだ。

 

ひょっとすれば、最初の頃の主張と、気付けば真反対のことを口にしてしまうかもしれない。

 

そうなれば、①のパターンと化したそのコミュニティにおいては、きっと価値を失うことになるだろう。

 

だからこそ、所属するコミュニティを1つに絞るのは愚策なのだ。

 

自分の思いと世間の理想が合致するコミュニティ。自分が中心となるコミュニティ。一つに絞る必要などない。出たり入ったり、流動的に振る舞えばいい。

 

『そんなもんダメだ!気の合う仲間とだけ、真心こめて付き合いなさい!』という意見は無視しよう。

 

多分そんなことを言う人も、会社以外に地元の友達、ゴルフクラブ、飲み屋の常連など、気付いてないだけで複数のコミュニティを渡り歩いているから。

 

自分は一人でも一つでもないと思えたとき、初めてその人には救いができるのだ。

 

終わりに。

 

辛く悲しい結果になってしまう人は、逃げ場がない状況に理由や過程はどうあれ、なってしまっているのが最たる原因だと思う。

 

そしてそれに当人が自力で気付くことはまず無い。聞いた話だが、入念な準備を経て自殺に至るケースは稀で、ふと衝動的に行ってしまう場合が大半なのだという。

 

―どうかこの辺の話を知ったうえで、周りの悩める生徒にアドバイスを送れる状態ではあってほしい

 

ぶっちゃけるが、僕が私企業である塾に勤めているのも、それが理由かもしれない。学校がイヤな場合の駆け込み寺でありたいという思いも、嘘偽りなくあるのだ。

 

世界は一つなワケが無い。区分しなければ、学校だけでも全国に約25,000校あるという。塾も加えれば、その数はさらに膨らむ。

 

そして、アドラーによれば、コミュニティの最小単位は『わたしとあなた』である。となれば、もはや無限にあるといっても差し支えないだろう。

 

どこかで評価されなくても、別のどこかで評価される。それは絶対に間違いない。

 

どうかそのことを、辛そうにしている人がいたら伝えてあげてほしいなと感じて仕方がない。

 

―少し重たい話であったが、今日はこの辺で。

 

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