先日SNS上で、胃袋の辺りが酸っぱくなるやり取りを見た。それはイラストを投稿した人(Aとする)と、それをアイコンに勝手に設定した人(Bとしよう)とのやり取りだ。
その問答をざっくりまとめると、以下の通り。
B「この絵良いですね、アイコンに設定しました!」
↓
A「これフリーでの利用扱いにしてないので、変えてくれませんか?」
↓
B「金が欲しいなら最初からそう言えばいいのに。絵に罪はないのでアイコンは変えませんが、あなたのことはブロックします。」
・・・・。
読んでいて、あまりの頭の悪さにこっちが恥ずかしくなってしまった。論理の飛躍、曲解、開き直り。全てが含まれていて、いたたまれなくなってしまう。
こういうときに真っ先に思うのが、当人のIQではなく、それがヘンな考え方だということを指摘してくれる人が、それまで周りにいなかったのかなという心配だ。
そのことを考えたとき、「あっ」と気が付くことがあった。こないだ類は友を呼ぶという言葉のダークサイドを書いたが、それに繋がる、ある切ない真理だ。
日本語が読めない人とコミュニティの、密接な闇。今日はそれについて思うことを書いてみる。
「僕らの世界では正解なんだ!!」
ところで、先ほどのような発言(著作権を語るヤツは銭ゲバで悪いやつだから、従う必要ナシ!)をする人が目の前にいたら、あなたはどうリアクションするだろうか。
とりあえず僕であれば、そんなのに一から国語を教えるなんて七面倒過ぎるので、絶対に距離を置く。同じような行動をする方は、多いのではないだろうか。
すると距離を置かれたその人はどうするかというと、意外と孤立することは無く、また別の似た価値観を持つ人を探して、その人達と一つのコミュニティを形成すると思う。
そのコミュニティでは、「著作権を語るヤツは銭ゲバで悪いやつだから、従う必要ナシ!」という考え方が共通言語として通用するし、なんなら正義として扱われる。
無断で画像を利用して怒られたりブロックされたりしたら、さも「鬼の首を取った~!!!」という風に、そのコミュニティ内では賞賛されるのではなかろうか。
ここまで考えれば、おのずとわかる。その考え方をオカシイと指摘してくれるような人は、その人達の周りにいるわけが無い。とっくに距離を置かれているからだ。
僕らが「めんどくせー」と思ってスルーした人たちは、また別の「めんどくせー」と思われた人と引き合い、集団を形成していく。
バカの壁ではないが、意外と僕らの世界は分断されている。その一つの、切ない好例ではないかと思う。
分断➡接続➡可視化➡分断。
僕が子供の頃、交友関係はせいぜい学校内に限定されていた。そして学校同士の交流は、よほどのことが無い限り、発生しない。いわば、分断された状態である。
その内部で、例えば遊戯王好きとかポケモン好きという細かいグループに分かれていた、という構図だったように思う。
ところが2010年前後からFacebookやmixi、TwitterやInstagram,、LINEの登場により、個人と個人、コミュニティとコミュニティが、急速に接続されることとなった。
市をまたぐ、県をまたぐ、それどころか国をまたぐ。あらゆる個人とコミュニティが繋がる社会の到来に、僕らは興奮するどころか眩暈を覚える程であった。
―しかしそれによって可視化されたある存在が、ネットを再び分断に向かわせているように思えてならない。それがいわゆる日本語が読めない人だ。
オープンな場だと、嫉妬や謎の正義感・論理によって引き寄せられたヘンな人も、大量に湧いてくることになる。いわゆるアンチと考えてもいい。
「貴重な時間を浪費して僕らの告知をしてくれるからある意味ありがたい存在」と割り切っている人もいるが、大抵の人はそんなのとは関わりたくないと思う。
だからSNS上で鍵垢や有料アカウントといったものを作り、オープンな場所から分断することで、限定された”本当にファンの”人たちと交流できるようにする。
ちなみに分断"された"側の人の意見を聞かされたことがあるのだが、いわく「登録せんと見れないとか本当にウゼェ」というものであった。なんか、どこまでも愚昧である。
数多の本やインタビューで指摘されているこの現象は、今しっかりとあちこちで確認できる。どこまでいっても、結局コミュニティは分断される定めなのかもしれない。
終わりに:合わない人を止めないということ。
「去る者は追わず」という言葉がある。僕はこの言葉が好きだ。自戒の言葉として、自分にすごく合うからだ。
自分の価値観に賛同できない人を追うということは、自分の信念を曲げることになる。1人追えば、3人失うかもしれない。勇気をもって、そこを切れるかどうか。
実際、先月あった問い合わせの内、1件はこちらから断ったし、もう1件は向こうからキャンセルが来た。喉から手が出るほど欲しい学年だったのに、だ。
それについて、僕は僕の下した決断について、間違っていないと確信している。乱暴に言えば、そこを飲むと、既存客に不都合が出ると思っているからだ。
結果その人達は、僕の校舎のネガティブキャンペーンに精を出すかもしれない。アンチ同士で一つの集団を生み出すかもしれない。
だがそれによって、「実際はどうなの?」と興味を持ってくれるかもしれない。アンチに嫌われることは、まともな人が関心を持つ契機になるかもしれないと考えている。
SNS上の胃袋が酸っぱくなるやり取りを通じて、思わぬことが学べた瞬間であった。では今日はこの辺で。