精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【ADHDと集団授業】現状最終回・結局、【集団授業】ってどうなの?

最近米を止めて焼き芋に変えてから、すこぶる体調が良い僕です。前世の主食は芋だったんですかね。確かに垢ぬけない人間ですし。中元です。

 

さて。今日で集団に混ざっていた例の生徒がファイナルとなる。

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思えばこの【ADHD】という言葉に密に向き合い、調べ、実践し、検証し、反省し、そして打ちのめされたのは、人生で初めての経験である。

 

自分がそうだというのは全然平気なのに、他人のそれは、どうして良くも悪くもあそこまで心を揺さぶられてしまうのだろうか。

 

それは多分、僕が『教える側』に立ったからだろうな、と。つまり、統率しなければならない役割になったとき、やっぱり一人一人の個性とは衝突する

 

そう考えれば考えるほど、強く思う。

 

ADHD】に理想の環境は、果たして集団生活なのだろうか、と。

 

今日はそれを考えて、このシリーズの〆にしたいと思う。

 

 

ADHD】という才能を活かすか、殺すか。

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ADHD】は『和をもって貴し』的なあれこれには不向きと言われるが、だからこその才能と解釈することはでき、それには異論がないと思われる。

daigoblog.jp

 

実際その生徒も、例えば『暗記系』の能力は抜群で、冗談抜きで僕より上な部分もあるのではというくらい高かった。

 

また『社会』が好きなため、上記の能力と結びついた結果か非常に知識量が多く、戦国時代の武将は領地の名前とセットでほぼ言えるという無双状態であった。

 

・・・しかし、これは集団生活においては才能ではなく、矯正すべき弱点として評価されるのではなかろうか。

 

『落ち着きがありません』『話を聞けません』『好きなことには興味を示すのですが、発言を取ります』・・・・(懐かしい)

 

これについては、学校の先生がケチとかじゃなく、システムの問題だと思う。集団の中で我を通せば、当然割を食う人間が出てくる。

 

「真面目にしてるのに割を食っておきながら、迷惑をかけるその生徒が高く評価されるのはオカシイ!」

 

・・となったとき、"よい"成績を付けねばならないのはさてどっち、という話である。ちなみに例の生徒は、社会で80点以上を連発していても『3』であった。

 

ADHD】というのは活かす方法がもちろんあるものの、それは特に義務教育下では非常に難しいのではと言わざるを得ない。

 

要するに、既にひっ迫している教員や学校に新たな仕事としてぶん投げても、ロクに機能しないのは明白という話なのだ。

 

「社会に出るまではハンデだけど、出たら活かせるから、今はどんまい!」

 

・・・暴論だけど、今の世はそうなっちゃってると思っちゃう。どうしても、思っちゃう。

 

そのために足りないのは『理解』という名の『システム』。

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「そのためには周囲の理解が大切・・・」とよく言われるが、ぶっちゃけ不特定多数の価値観を変えようと頑張るより、始めからそういう価値観の所に行った方が早い

 

世の中には、ひっくるめて発達障害を抱える生徒の指導に特化した塾も存在しているし、長所をどんどん伸ばす教育法ってのも実はある。

junior.litalico.jp

studystudio.jp

 

しかしこれは、それを抱える人とその周囲にとっては【適切なケア】だが、他の人からみれば【ただのワガママ】にもなりえる。

 

理解とはシステムと言ってもいいくらいなので、例えば『得意科目で学年より遥か上の資格を取ったら、かなり優遇する』といった救済措置があってもいいと思う。

 

通知表は悲しいかな、『テストの点より学校での振る舞い』が重視される数値なのだ。そこで『2』と『3』ばかりが並んでいると、どうしても人間性ごと否定される。

 

その中でも、ハッキリと検定の取得とか、ちょっと特殊な資格とか、そういうのが並んでいたら、学校が裁量を持って押引きできるようになればいいなと思わされる。

 

今のところはそういう気質があるから「やめとこう」という風潮しかないのが少し悲しい。

 

それがいつか広い意味でゆるくなればいいのになと、やはり願ってやまない。

 

終わりに。

 

今さらだが、入塾して1ヶ月とかそこらで、『集団には向いてないです』と伝えるべきだったなと唯一後悔しているわけで。

 

向いていない環境で無理に従うことによって、果たして誰が幸せになったのだろうか。考えれば考えるほど、偽善じゃねと思ってしまう。

 

今後こういうケースがあったら、不幸になる総数を減らすためにも、バシッと言ってやろうと考えている。

 

もちろんオブラートにくるみながら、だけど。

 

では今日はこの辺で。

 

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