精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

将来の進路が決まりきらないなら、色んな選択肢を『試せば』いい。

進路相談がホットである。

 

やはり、『今夢を決めろ!』と『まだ考えたい!』という2つの価値観は、パラダイムシフトの最中らしい。

 

このやり取りは、綺麗に親世代・生徒世代で前者後者と分かれている感じだ。親は決定を望み、生徒は保留を望む。

 

僕はちょうど過渡期の世代なので、どちらの考え方もしたことはあるが・・・。個人的なスタンスは『まだ考えたい』寄りである。

 

色んな既存の仕事が消えて、代わりに未知の仕事が雨後のタケノコの如く現れる世界で、選択肢を一本にするのは果たして最良の選択なのだろうか

 

そういう疑問を抱いているためだ。

 

ってことで、最近僕は生徒から将来の進路を相談されるたび、以下のように答えている。

 

『軽く叶えてみればいい』

 

―今日はそんなお話である。

 

 

経験・知識不足が生むリスク。

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僕が生徒にそういう理由は、『何年もの期間や労力を突っ込んで、初めて向いてるかどうかわかるとか、非常に勿体ないから』に他ならない。

 

昔ここでも書いた例え話だが、『人に何かを教えたい』というのが夢の生徒がいたとする。

 

※不思議なもので、『じゃあ、こういう人はどんな職業を目指すと思う?』と生徒に聞いたら、今のところ100%即答で『教師』が返ってくる

 

そしてこの人の頭の中には、『=教師』という知識しかなかったとしよう。

 

となれば、当人にとって目指すべき道は一つ。教育学部に進学し、4年間更にそこでも勉強し、非常に狭き関門『教員採用試験』を突破する。これしかない。

 

―こういう長期の夢を、ある程度から上の世代は歓迎し、モデルケースとして称賛するが、僕は逆。危なっかしくて仕方ない

 

―仮に首尾よくいって、この夢が叶ったとしよう。

 

だが、現実は結構酷である。生徒と向き合う日々の中で、自分に適性が無い、向いていないという感想を抱くようになったら、その人はどうなるだろうか

 

既に4年以上の時間と、とてつもない労力、何なら学費も投資しているため、スパッと『辞める』という選択を取れる人は少ないと感じる。

 

というかそもそも、職業問わず夢叶えるのに何年も掛けて、それで初めてリアルを知るとか、システムとしてどうなのだろう?

 

野球がしたくて入部したら、最初の一年は球拾いオンリーでした、というアレに似ている。修行と雑用は違うのに・・。

 

そんなワケで僕は、『ただの憧れ』や『なんとなく』に賭けて、結構な時間や労力を突っ込むことは、本当に超ハイリスクな博打だとしか考えていない。

 

しかし、なかなかそういう価値観を容認するようにはまだ至っていないため、もやもやする。

 

『夢を具体化する方法』等は結構教わるのに、『夢を簡素化する方法』多分怒られて終わる。『夢を舐めんなコラ!』という風に。

 

―ってことで、ここから具体的に、僕が生徒にしてる声掛けに移ってみる。

 

『軽く叶えてみればいい』

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さっきの、『人に何かを教える仕事』に憧れを持つ生徒を再び例に取る。

 

正直、こういうことを言う時点で、何かしらの原体験を持っているのだろうが・・・。ならば必要なのは、『経験』だ。

 

冷静に考えるとすぐわかるが、人に何かを教えるとは、別に『教員一択』ではない。そう考えると、『最短・ローリスク』でそれを叶える方法はすぐ浮かぶはずだ。

 

『じゃ、教育指導のボランティアでもしてみたら?』

 

僕ならこういう。今サクッと調べただけでも、募集はちょこちょことあった。(コロナの影響で少ないのは少ないが)

 

夢を軽く叶えてみて、向いてるなら目指してもいいし、何か違うと思ったら違和感を素直に抱えても良い。もちろん、別の方法を試すのもアリだ。

 

頭の中で考えるより、遥かに建設的である。そしてこれは、大抵の職業で応用が利く。

 

コツは、具体的な職業名を浮かべた後、『それは結局何をする仕事なんだい?』ってのを調べることだ。

 

後はその『何』を体験できる活動やサイトなどを探し、試してみる。これに尽きる。正直、自由研究のテーマとしても面白いのではなかろうか?

 

いわば『セルフ職業体験』だ。ただし、レポートは要らないし、丸一日投資する必要もない。小出しで十分だ。

 

かくいう僕自身も、今の仕事との出会いは完全なる偶然だし、学生の頃に描いていた理想の働き方では、いずれ自分は心を壊すとも、よくわかっている

 

案外自分の思い込みって適当なのだ。

 

ぶっちゃけ僕が子どもの頃から一貫して抱き続けている夢はただ一つ、クロカジキを釣る!!』しかないし、これは金にも職業にもならない。

 

カジキは好きだが、それを追っかけて漁師になるほど好きでもない。夢と仕事は別のベクトルを向いていることも少なくないのだ。

 

話が反れたが、夢をやたらと尊いものと捉え、崇拝に近いレベルで考える・・なんてのを止めた方が、僕は色々と健全だと思う

 

つまりそういう提案である。

 

終わりに。

 

僕はそろそろ30歳になるのだが、小学校の卒アルを見ながら過去を振り返ったとき、『そういえば具体的な夢を言ってたやつって何人いたっけ?』とふと思った。

 

うーん、どう考えても1人である。しかもそいつは現在、全然関係ない職に就いている。

 

そして、当時は知らなかったけど、小さい頃からの夢を一貫して持ち続けて、ついに叶えた人についても思いめぐらしてみた。

 

うーん、やっぱり1人である。(ちなみに医者)

 

乱暴に言えば、結構ガッチリと夢を語る生徒の割合は、僕の世代でも60人くらいに1人となる。

 

叶えるとなれば、130人くらいに1人だろうか。

 

―母数がめっちゃんこ少ないが、こんな確率のモノに人生の序盤ほぼ全てを投資するのは、やはり、どうしても、どう考えても、怖い

 

仮に転職や夢の変更が許されない世界に生きていたら、僕は小4で生きがいを失い人生終了である。希望が転生って、そりゃねーぜ。

 

ってことで、志が低いのか高いのかよくわからない記事ではあったが、何かのヒントになっていればありがたし。

 

では今日はこの辺で。

 

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