最近どうにもイライラしてしまう。
もちろん生徒に当たり散らかすといったクソ野郎なことはしていないが、それでもなんかこう、不健全な感じはある。
原因は非常に簡単で、業務のアンバランスさだ。実は僕、今月は盆の5日間以外、休みなく仕事をしておりまして。
しかも大抵は、始業時間を前倒したり、隙間時間ゼロだったりと、労働基準法的に大アウトなことをして、やっと回っている状態である。
しかしその一方、定時でコロッと帰れたり、なんなら有休をきちんと消化できたりする人もいる。
―全力で目を反らしてきたが、最近ちょっとずつ限界が来ているなぁ、と。気になるのだ。なぜ自分はこんなにたくさんの仕事があり、一方あの人たちは暇があるのだ?
簡単に言えば、やさぐれているのだ。多分マインドとしては、猛烈に努力している自負があるのに、模試の点がピクリとも動かないとか、そういうのに近い。
こんな時は、一旦立ち止まらなければダメだ。冷静にならねばならない。では、どうやって冷静になるか?それは、人の教えを本で読むのが、僕にとってはベスト。
そして今の僕の状態にドンピシャな言葉を、ふいに再発見した。それこそが、
『努力は自分、評価は他人』
である。今日は同様にやさぐれてしまった皆様に向けて、この言葉を紹介してみようと思う。
出典。
実は何回か紹介したことがあるコチラ。著者の二人のことは、実は知らなかったのだが、タイトルで衝動買いした一冊。
『努力は自分、評価は他人』とは、その中に載っている言葉だ。
ざっくり意味を言うと、
『結果が出て初めて、努力は評価されるもの』
『それが伴わないなら、まだ努力とは言わない』
『頑張ってるから認めてほしいといった風に"努力そのもの"の評価を求めるのは、甘ちゃんである』
という感じ。(どうしても僕が書くと、なんか言葉が薄っぺらくなる。詳しくはやはり実際に読んでみてほしい)
さてさて。では、僕はこの言葉をなぜ紹介したいのか?先に言うが、『だからもっと血を吐くまで頑張れ俺お前』という気は、さらさら無い。
むしろ逆で、『俺は最近忙しいが、それはわざとそうしちゃってねぇかな?』という風に、自分は努力の方向を間違えていないかと反省するきっかけになるからだ。
その上で冷静に自分を分析すると・・・・・・。
うむ、俺は俺が忙しくないと困るのか知らないが、この多忙さとイライラを、多分無意識でワザと作っている。しかもそのほとんどは評価されない謎の努力だ。
いかん、危ない危ない危ない。
―せっかくなので、ついでに分析と対策のプロセスも書いておこうっと。
『忙しいのが好きな人は仕事ができない』
まずはこの記事を読んで、自分に思い切り冷や水をぶっかけるところからだ。
『多忙を目的にすることのしょうもなさと哀れさ』をしっかりと直視し、冷静になってから、普段の自分の仕事の分析をしてみよう。
さて。僕の仕事は授業が大半・・ではなく、もっというなれば地味なタスクで埋まっている。
出社してすぐ、日報等のチェック、ご家庭からの問い合わせの返信、学生講師から何か連絡があれば対応。隙間時間にはたまに、面談も入る。
そういったせねばならないことは本当にさっさと終わらせる。
そして何とか生んだ時間で、授業準備、資料作成、新規事業考案とかの”自分がしたいこと”を無理やり捻じ込んでいるため、帰る頃にはへとへとである。
―冷静に手帳のTo doリストを読み返してみると、実際には自分が多忙と感じる前と後では、作業量にあまり変化はなかった。
じゃあ、僕がここまでストレスを強く感じるようになった理由は何か?ちょっと考えると、その原因にすぐ行きついた。
最近の仕事の振られ方が超絶雑だからだ。
僕の実働や時間を、僕の承認なく奪うような仕事が連続し、それにたまらなくイライラしているというのが実だった。詳しくはコンプライアンスで言えないけど。
なーる。別に多忙だからイラついていたワケじゃないんだな、と。じゃぁ、打てる手はもっと建設的なことが考えられる。
例えば、その分僕の作業を誰かに依頼すれば済む。3年前にインフルで結構休んだことがあったが、会社は普通に回った。だから、僕にだけできる仕事など、あり得ない。
それか、マジでしたくないことのクオリティをギリギリまで下げて、時短を狙うってのもアリだろうな。
そう考えたら、この辺もまたゲーミフィケーション。サブタイトルは、『自分の時間を取り戻せ!』とかそんなだろうか。となれば、少し楽しくなってきた。
今抱えている仕事を上手いことくっつけたり振ったり、めんどくさすぎれば自然消滅させたり、嫌なことはガンガン消し、したいことに回す。
こっからはそれを目標に頑張る所存です。
終わりに。:困ったことは起きないよ。
最後に、もう一つだけ名言をご紹介。これは、日本一の大商人とされる、『斎藤一人氏』の言葉だ。
『困ったことは怒らない』
これは何も、能天気に考えよう!という無責任な話ではなく、もっと実践的な考え方だ。
例えば何かに取り組んでいる際、それがだんだん苦しくなってきたとしよう。英単語の勉強が次第にめんどくさくなるような、アレ。
そういう時は、苦しさを我慢し押し殺すのではなく、それを、
『やり方を変えるべき』
というサインのようなものだと解釈する。そういう話なのだ。
単語の例であれば、単語帳が嫌ならアプリを使えばOKという話であり、僕の仕事で言えば、敢えてスケジュールをスカスカにしてみる、というのも一例となる。
頑張れば頑張るほど評価してもらえるほど甘くはない。そのステージは学校教育で終わっている。
果たしてこの努力は、結果に直結するようなものなのか?無駄な忙しさを生んでしんどさを作ってないか?
自分に甘い僕は、この辺は常々考えたいと思います。
では今日はこの辺で。