最近ある恐怖が氷解した。
それは、『謂れのない批判や非難を受けたらどうしよう』というものだ。『悪口』と言っても良い。
僕は精神的に打たれ弱い自負があり、例えば上司や顧客からお叱りを受けると、結構強く、長く凹んでしまう。(これこそがお酒をよく飲むことの一因でもある)
そんな僕なので、こうしてあっちこっちで発信しつつも、心のどこかで、『他者から強い言葉を浴びせられたらどうしよう』という恐れを抱いていた。
ダイレクトで自分に飛んでくる、知らない人からの悪口。かつて2ちゃんねるのログを読み倒していた時期があるだけに、それらが自分に向くことは恐怖でしかなかった。
―だが、最近それについて、『俺は能天気な勘違いをしている』と気付く出来事があった。
そしてそれをきっかけに、『既に俺は人生で何百発も、批判も非難も食らってるじゃん』と気付いた。
その現実を理解した瞬間、『でも俺は普通に楽しく生きてるじゃん』という悟りが心に浮かんできたのだ。
そしてその『気づき』とは、実は皆さんにもいつ何時起こり得る、非常に普遍的なものである。
今日はそれをシェアしたい。
バリゾーゴン。
そのきっかけとは、僕の携帯に滅茶苦茶届くようになった迷惑メールである。
どうにかこうにか僕に詐欺用のURLを踏ませようと、こちらを挑発するような文言がふんだんに盛り込まれている。一部を紹介しよう。
『どうされたいのかご意思をお聞かせください』
『必要ないならせめて辞退してください。放置無視傍観は悪意ある行いです』
『お聞きいたします。日本語はお読みになれますか?』
『無視とか人でなしですねw』
―等々。もはや挑発通り越して攻撃である。
実はこれらって、文言だけ綺麗に取りだせば、僕が恐れている『知らない人間からの批判・非難』と全く持って同じである。
でも、僕はこれについて、正直マジ何にも思わないのに気付いて少し驚いている。何なら少し、微笑ましい。
僕にこんなメールを書いて送ってくる暇人にいくら嫌われようが、僕は死なないし地球も終わらない。なんかそれに、自然と気付けた感じ。
―でもこれは、『完全に知らない人間からのそれ』だからそう言えるのではなかろうか?
だから自分の過去を振り返ることにした。嫌われないよう小さく小さく生きたあの頃。それがどう作用したか、密に思い出した。
そして思い出した。僕は一部から、結構な嫌われ者だった。嫌われたことがないからそれを怖いと思うなんて、マジ能天気な勘違いだ。
その心当たりは、中学時代の思い出に遡る。
みんなから弾かれたあの頃。
僕は昔野球部だったのだが、退屈な基本練習が嫌いになり、3週間くらい部活をサボったことがある。
その間、同期のメンバーに出会っても、先輩に挨拶しても、もれなく無視された。何なら、話しかけてくんなというオーラも感じたっけか。
これを『嫌われている状態』と言わずして何と言う?僕は属しているグループから、自分のせいだが爪はじきに遭っていたのだ。
あの頃の居心地の悪さは、正直普段は完全に忘れている。しかし、思い出そうと思えば非常に不快で辛かったあの日々を、いつでも色濃く呼び起こすことができる。
それにそもそも、僕は先生に嫌われていたからこそ、血の気が引くほど低いスコアの通知表を叩き出していたのだ。あの数値が物語るのは、そういう現実でもある。
―僕はこんな風に、知ってる人間からも既に嫌われている部分があったのだ。でも、やはり・・・・。
僕は死なないし地球も終わらない。
これって大事だけど、意外と過小評価されている事実だよな、って。
そんな僕も、本気で死を考えた時期があるという。
別に隠していたワケじゃないが、僕は20代頭の特定の時期の記憶が、割とスッポリ抜け落ちている。
理由は、そこで『適応障害』と診断される状態となったからだ。
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
その日々の記憶で唯一覚えているのは・・・。電気のヒモで首つりの輪っかを作ってみた夜くらいである。
では、なぜ僕はそんなに追い詰められたのか?集団でのいじめにあったのか?・・・それに似た状況でもあったっちゃあったのだが・・・・。
人生から自分の裁量のほとんどが消えたことが原因だ。そこまでしたくもない仕事をするために、人生の全てを犠牲にして生きる。
あの日々は本当にそんな感じだった。それに比べれば、他者に嫌われようが、自分がしたいことをできる環境の方がよっぽどマシなのだ。
僕は自分にとってのどん底に一度落ちている。それに比べれば・・・他人から『嫌い』を表明されることってどれくらいの痛みなのかな。
骨折している状態で、ほっぺを蚊に刺されるくらいのものだろうか。もしかしたら感知すらできないかもしれない・・・。
つまり僕は、努力しても嫌われたし、悪口に溢れた環境に居るし、それらすべてが生ぬるく感じるほどの地獄を一回経験してもいるのだ。
無知は罪なり。それは、記憶の奥底に消えている情報も指す。
終わりに。
何でそんなことを考えたか。
実はうちの塾にも何人か、塾では楽しそうだが学校では集団に加わりきれていない状態の生徒がいる。
けらけらと笑ってはいるが、その笑顔の裏で心の底に抱えている闇とか、悲しみを考えると、ドライな僕でも熱いものが込み上げてくる。
そういう生徒にどう声掛けをしようかと考えていたとき、ふと迷惑メールと、過去の思い出と、本当の意味の黒歴史の全てが、僕の中で繋がったのだ。
こうした諸々を抱えた僕が楽しそうに生きて仕事をしていること。もしかしたらそれも、生徒を支える一助になるかもしれない。
ま、大げさか。それに、僕が死を考えていた時期があることなんて、生徒に言えるわけがない。
この情報の出しどころ、もうしばらくは様子見ですな。
―では、ブログの趣旨からなんかズレているけど、今日はこの辺で。