精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【同業者向け】「あの先生じゃなくなるなら塾辞める!」という発言は、美談ではなく失敗だ。

新年度が近づいている。それに伴って、大学を卒業したり、あるいはスケジュールが変わって仕事に入れなくなったりする講師が出てくる時期でもある。

 

つまりここからが恐怖の、後任への引き継ぎ祭りとなる。しかも今年は、僕が昇進するということも重なり、僕自身が持てるコマの空きも減っているという状態だ。

 

だから、「代打オレ」という技もかなり制限されている。かなり難度の高い詰め将棋か、因数がたくさんある連立方程式を解いている気分になる。

 

―そして何が恐怖かというと、僕のやり方がマズいのもあるのだろうが、大体毎年1~2人は、「あの先生じゃなくなるなら辞めます」というのが出てきてしまう

 

以前は「それほどあの先生には人徳があったということか」と、残念さと悔しさの中に感謝の気持ちを抱いていたものだが、今は違うことを考える。

 

それは、いわば広い目で見たときのマネジメントの失敗だ。美談でもなんでもなく、これは僕が目指す校舎から現実が程遠いことの、手厳しいサインに他ならない

 

今日は単なる持論だが、その理由について言い訳する。

 

 

対ヒトから、対コミュニティへ。

「あの先生じゃなくなるなら塾辞める!」という発言には、ある怖い前提が隠されている。それは、「あの先生以外、お前のとこには魅力が無い!」というメッセージだ。

属する個々人に対するファンではあるが、組織そのもの(この場合だと校舎)に対しては、愛着など無い。そういう厳しいジャッジを下されているように、僕は感じる。

 

つまり、その生徒(あるいはご家庭)をコミュニティのメンバーとして迎えられていなかった、一員だと感じてもらえていなかったという、いわば失敗の証左なのだ

 

そしてなぜそれが生じるのかというと、組織が個人レベルに分断されているからだと考えたら、どうか。

 

背中を変な汗が伝わるくらい、冷たい恐怖を感じてしまう。これはつまり、ばらばらな何かが集合しているだけの、あまりにも脆い塊だからだ。

 

理想論ではあるが、「あの先生じゃなくなるのは寂しいけど、この校舎の人たちなら、誰でも安心して教われる」という心理的安全。僕はこれを、狙って構築したい。

 

ただ、そのための具体的手段など全く閃いていない。だからこそ悪戦苦闘しながら、あーでもない、こーでもないとじたばたしている最中である。

 

しかしこの掴みどころのない、「対ヒトから対コミュニティへ、顧客の支持を得るためには、どうすればいいのか」という命題は、考え続けなければ死あるのみだと思う。

 

それだけは間違いないと、はっきり自覚しているところではある。

 

誰がいて、何をどう教えているのか。


ここを掘り下げて考えると、僕は表舞台からとっとと消えて、裏方としてコミュニティ設計に尽力すべきというスタンスは、大枠で間違えていないように思えてきた。

 

指導する側として、生徒と一対一で向き合うという立場だと、必然的に視野は狭窄となる。そのメガネを掛けている限り、全体を俯瞰するのは至難の業だ。

 

とはいえ、大局観をもってコミュニティを考えようと思うと、僕は一介の講師に戻ることが困難になる。そしてこの二足の草鞋は、僕は両立し得ないと考えている。

 

個人ではなく、「みんな」と「みんながいる場所」のファンになってくれる人を、どうすれば増やせるのか。僕にとって目指すべき校舎長の像が、段々とくっきりしてきた。

 

単純に考え付くのは、講師・生徒・保護者の垣根をなるべく超えて、誰が属していて何をしているのかを明確にすることである。

 

もちろんプライバシーへの配慮といった細かい気配りはマストだが、僕が思う「あたたかさ」を感じる塾は押しなべて、ここの可視化が非常にうまい

 

逆に、衰退しつつある塾の不気味な共通点として、内部が全く見えないというのも感じている。そして僕の校舎は、それを満たしてしまっている。

 

ここは会社というより前任者の意向が強いため、交代後は僕がメスを入れても大丈夫な部分となる。多少衝突してでも押し切らねばならないだろう。

 

―にしても、今年はいくつ、「あの先生が辞めるから辞めます」という話が出るだろうか。それらすべてを謙虚に受け止めて、ここからリビルドするつもりで取り組もう。

 

交代まであと少し、ひたすら未来の自分のために宿題を作って、残しておくことを続けよう。

 

では今日は、この辺で。

 

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