精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

『嫌われる勇気』の”本当の意味”が、今さらだが分かってきた。

ずっと昔に読み終えたはずの『嫌われる勇気』という名著。

 

その意味は、『嫌われる勇気を持つことができたとき、自分に正直に生きることができるのだよ』という精神論だと、ずっと考えてきた。

 

つまり、『没個性』に甘んじているのは、『嫌われる勇気がないからだ』という感じ。だから、そう生徒にも伝えてきた。

 

―しかし、最近少しずつ、『いや、そんなに薄いハナシじゃないんじゃないか?』という疑念を抱くようになってきている。

 

もっと普遍的で、具体的で、実践的な教えであるということを言いたいんじゃないかと、そう思えて仕方ないのだ。

 

今日はそんなもやもやを整理整頓するべく、全て言葉にしてみようと思う。

 

 

そもそも大抵の人は『嫌われる』ステージに入っていない。

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今までの人生を振り返って気付かされるのは、『嫌われる』という状態になることさえ、結構難しいということだ。

 

例えば僕も、『あぁ、この人俺のこと嫌いなタイプね』と思う人には何人か出会ってきていて、一方友達もある程度いる。

 

―しかし、どう考えても、人生全部で出会ってきた人たちの数に対し、そのどちらかのカテゴライズに至った人は超少数派なのである。

 

大体5歳ぐらいから『他者』が認知できるとして、そこから平均すれば毎日一人、未知の人に出会ったと仮定すると・・・

 

僕はざっくり、人生で8500人ほどと出会っているらしい。どう考えても、僕のことが嫌いな人と、僕と付き合いがある人の人数を足しても、その数値に至らない。

 

つまり、人生において8400人くらいは、もはや僕の中に存在していない方々も同然なのである。

 

それは同時に、圧倒的大多数に対し、僕もそうであるという意味だ。

 

嫌われないための努力以前に、そもそもほとんどの場合記憶にすら残らないというのが実際の所なのだろう。

 

では、その理由は何なのか?

 

多くの人は『他者は自分に興味がないから』と説くが、僕はその理由の深いところに、『嫌われる勇気』の教えがあると感じている。

 

次項、そんなお話。

 

お前は誰だ?

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少し思考実験を混ぜてみたい。

 

あなたが森に出掛けたとしよう。当然森なので、木は大量に茂っている。

 

では、あなたはその一つ一つを、明確に区別することはできるだろうか?きっとそれは、難しいと思う。

 

それはなぜか?区別しようにも特徴が全くないからだ。同じ『木』である以上、森とはその集合体以上の意味はない。そう考えても不思議ではない。 

 

だが逆に、面白い形をしているとか、樹液が大量に出ているとか、たくさんの虫に好かれているとかいう個性があれば、話は別ではなかろうか?

 

―僕が思うに、これは社会でも同じである。

 

この国だけでも1億人以上が暮らしている状況で、その全員を『個性を伴うもの』として認識することは、非現実的だ。

 

つまり、教育の現場でもよく出てくる『個性がない』という問題は、空気を読み過ぎて空気になっているとかよりも、もっと手前にある気がしてならない。

 

僕はその原因こそ、『発信の圧倒的不足』にあると考えている。

 

言い換えれば、人に嫌われない努力の結果で個性が消えたというより、そもそも自分がどんな人間かを誰にも言っていないから、という方が正確なのではなかろうか

 

特徴も何もないから、誰の記憶にも残りようがない。それこそ、鬱蒼とした森に生える一本の木である。

 

―ではここまで書いたところで、最後の話をまとめにかかろう。

 

『あなた』が好き。『あなた』が嫌い。

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これは僕がそう捉えたというただの感想だが、僕なりの『嫌われる勇気』の解釈を書いておく。

 

『嫌われる勇気』とは、自分がどんな人間なのかを積極的に発信することである。

 

どんな人間なのかを一切発信することが無ければ、嫌われるもクソもない、存在していないも等しい状態のままだ。

 

それが嫌なのであれば、自分がどんな人間なのか、どんな思想なのか、本音をどんどんと発信しなければならない。

 

そうなれば当然、それに対し『それは違う』とか、『それは気にくわない』という声を上げる人も出てくる

 

その痛みを受け入れる勇気(≒『嫌われる勇気』)が備わったとき、『唯一無二の自分』ができてくるということなのではないか。

 

これは同時に、『同じ考え・熱意・価値観を持った人』と出会える可能性ができたことも意味する

 

例えばキャンプが好きだと滅茶苦茶発信すれば、勝手にその人の周りにはキャンパーが集まってくる。それと同じである。

 

―となれば、『没個性』が声高に叫ばれ、『空気を読むこと』が場合によっては悪となるという風潮も論理も、説明としてはいささか不十分だとしか思えなくなる。

 

だからまずは、『自分とは何者なのか』を自分が知らねば始まらないのではなかろうか。

 

そしてその上で、『自分はこんな人間です』というのを、様々な形で発信する。

 

趣味の様子をアップする。こうしてブログを書く。誰かの意見に賛成したり反対したりする。細かい差異はあれど、結局やっていることは同じなのだ。

 

『個性』がハッキリして、そこにやっと『好き嫌い』が生まれる。僕含め、まだまだ大半の人がその前の段階で、色々と恐れている状態なのだ。

 

―という風に、僕はこう『嫌われる勇気』を捉えたのだが、皆様はどうだろうか?

 

そして、皆様は何が好きだろうか?何が嫌いだろうか?どんな価値観を持っていて、何を基準に物事を判断しているだろうか?

 

答えに窮するのであれば、まずは自分の分析から始めてみてはどうだろうか。僕も明日、やってみるつもりである。

 

では今日はこの辺で。

 

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