詳しくは書けないのだが、ちょっと前に塾を辞めた生徒が、別の塾に通っていることを今日知った。
それはたまたま塾紹介の写真にその子が載っていたからなのだが、印象的だったのは『すごく楽しそうな表情』だったことである。
というのも、その子が辞めた理由は、『部活や学校だけでも大変なのに、通うのがしんどい』という塾そのものの否定だったのだ。
だが、別のところで楽しそうにやっているのを見る限り、意識的か無意識的かは知らないがそれは本当の理由とは違うような気がしてならない。
というか、これをもって僕は確信したことがある。その子が辞めた理由は、『ここは自分の居場所じゃない』と感じたからではなかろうか。
ーそういう目線に立つと、僕が最近勉強しているコミュニティ論の本に書かれていることとのリンクがみえてくる。今日はそんなお話。
仮説:多分今後、もっと退塾のハードルは下がる。
昨今、退塾が増えたと嘆く同業者は多い。実際僕のところも、流石に年に二桁はいかないのだが、出るときは出る。
これはドライな言い方をすれば『業績悪化』なので、ちょい八つ当たり的に校舎長から叱られることもあるのだが、正直もう慣れた。
で。あまりこれは表立って言えないのだが、個人的な意見としては『退塾』は止めても無駄だとしか思っていない。理由はざっくり2つある。
まず、そもそもそういう話を持ってくる時点で、決心が付いている場合がほとんどだからだ。『辞めようかと・・』は、『もう辞めます』なのだ。
例えば親子喧嘩の弾みで出たという事情が無い限り、まず撤回は無い。一応事情はどのケースでも僕は聞くのだが、決心が付いている場合はまず引き留めず了承する。
ちなみにその後は、スムーズに手続きを済ませることを意識している。『あの塾はダラダラと辞めるのを遅らせた!』って風評が立っても困るからである。
で、もう一つの理由は何か?それは、『辞める』といった時点でこの塾は『居場所ではない』という意味であり、引き留めるだけその子にとって不幸だからだ。
実際冒頭で書いたケースも心当たりがある。実は、その子の友人が集団クラスに属していなかったのだ。そういう寂しさは、退塾に容易に繋がってしまう。
学校でのクラスメイトに嫌な奴がいる程度なら『その時ぐらい我慢せいや』で済むのだが、私塾であれば簡単に『嫌だからやめる』が通用する。
コミュニティから抜ける敷居が低いからだ。学校は義務なので抜けることはまず許されないが、私塾はビジネスであり、書類一つで関係は繋がったり切れたりする。
今やあらゆる"同志"がネットを介して容易に繋がることが可能になった時代であり、どんなマイノリティであろうと探せば『居場所』は大抵存在する。
そんな昨今なので、『自分に合わない』→『他の居場所を探す≒退塾』にすぐつながるのは至極自然な流れであると感じるのだ。
勉強が嫌いなのに進学塾に行っても仕方がない。一方、ガンガン先に進みたいのに、楽しく授業するクラスに行くのもズレている。
理想やイメージとのズレが当人の閾値を超えたとき、退塾の話が出てくるのだ。そうなればもう、止まらない。それを満たす別のコミュニティを探すだけである。
恐らく今後も、退塾のハードルはガンガン下がる。というか、現代に適応しようと思い切り舵を切ると、あと5~6人は辞めるとさえ考えている。
次はその辺についてもうちょっと深めてみよう。
命題:『ここはどんな塾ですか?』
先ほど僕が書いた『舵切り』の内容とは、『どんな塾かをできる限り可視化すること』である。
つまり、入塾する前の段階から、自分に合う・合わないがわかる状態にしておくということ。ここが上手くいけば、入ってからのイメージのズレはある程度緩和できる。
予め広く認知してもらい、その中の一部に興味を持ってもらえれば御の字。その上で無料体験集団授業などの機会を打ち出し、オフラインでの接触の場を創る。
コミュニティ論を私塾に当てはめると、僕はこの流れを作れれば勝ちで、作れなければ廃れるとほぼ確信している。
ちなみに最近見切り発車で会社のSNSのコンテンツを作ったが、その裏には実はこういう心理がある。(上司には思い切り手綱を締められたけど、珍しく押し切った)
オンラインで情報を公開してから、オフラインで確認してもらう。まだ勉強と実践不足だが、ここは日々試行錯誤して知見を貯めねば間に合わないと強く感じている。
ーだがこれには負の側面もある。特に在校生に対して、今の状態から確固たる理念やアイデンティティを伝えると、どうしてもそれに合わない生徒が出てくるのだ。
イイ高校に行け!というのを打ち出すなら、トントンの高校に滑り込めれば良いという生徒は対象外となる。つまり、『ここはお前の居場所じゃない』と宣言するに等しい。
上に合わせれば下が出ていき、下に合わせれば上が出ていく。真ん中に合わせれば上下の末端が出ていく。僕の校舎規模の場合、どう少なく見積もっても5人は当てはまる。
これを誤魔化して校舎を運営し続けるか、理念に合う生徒だけを残し集めるか。これは校舎のカラーに当たる部分なので、僕が押し付けることはできない。
一番無難なのは、一つの校舎の中に複数の理念を混ぜ込むことかなぁ、と。例えば集団授業は中間層を拾い、個別授業で下位・上位の層をケア、という風に。
やはりこれも可視化だろうな。ただこれ以上は僕一人が突っ走らないよう、率直に会社に想いを訴えねばならないところだと感じる。(ワガママだろと一蹴されそうだけど)
実験中:口コミの材料を提供する。
良い口コミを起こせば勝ちというのは、どの業界もそうだろう。だが不思議なもので、悪いそれは簡単に起きて一気に拡散するのに、良いそれは滅多に起こらない。
この原因は何か?ぶっちゃけ、入塾した生徒の成績は概ね上がっており、『材料』は揃っていると客観的に見て思う。ではどうして?
ーそこからさらに深めると、ある仮説に辿り着いた。口コミをしようにも、『代弁するもの』が無いことが原因ではなかろうか?
つまり、どういう塾かを端的に紹介するツールに乏しいのだ。わざわざ保護者の方がパンフレットを渡して回ってくれるわけが無いではないか。
ここはまだ実験中で結果が出ていないのだが、『この投稿はこの塾を代弁しているかな?』という観点で、SNSのコンテンツを作成し、アップし続けている。
転送ボタン一つで紹介が完了するように、今や『口コミ』は、出来る限りそれが『手軽に』できるところまで調理しておかないと、多分起こらないという話なのだろう。
これは面白い結果が出たらシェアします。
終わりに。:辞めた生徒に思うこと。
最後は余談ですね。入社して数年は、退塾の話が出るたび、全身から血の気がさっと引くくらい動揺し、帰ってからも非常に落ち込んだものである。
しかし今は違う。良くも悪くも、感情が乗ってこないのだ。『そうですか』以上のリアクションが消えてしまった。
この考え方になった経緯は非常にシンプルだ。
退塾とは、不満が蓄積された結果である。その状態で無理に引き留めて残らせても、悪い評判が出ることに繋がる。というか、誰も幸せにはならない。
ここが『居場所』ではない生徒にとっては、『退塾』こそが最善の選択。だったらそれを尊重します、と。ま、こんなことを言いふらせば確実にブチ切れられますがね。
だから実際冒頭のケースで僕が思ったことは、『楽しそうで何より』という達観した微笑ましさである。楽しいなら何よりじゃん、と。
ーぶっちゃけ、ネガティブな空気を蔓延させず、授業のクオリティを担保し、成績も上げるという最低条件を満たしてさえいれば、大量の退塾は出ないはずだ。
しかしゼロになるというわけでもなかろう。僕らにコントロールできない部分のそれは絶対に防ぎきれない。例えば人間関係とか、立地とか。
僕は自分にコントロールできない要因による退塾は、一切思い悩まない。ただそれだけである。誰にどう苦言を呈されても馬耳東風です。
ってことで、ここ最近の出来事と、現在勉強中のコミュニティ論についての駄文でした。
では今日はこの辺で。