今日は休憩の無いマラソンを8時間走っているかのような気分でした。明日はもうちょい、時間が長くなります。死ぬ。
さて。デルタ株の感染力の強さが猛威をふるっている。緊急事態宣言はさらに拡大し、再びロックダウン(実際は違うけど)になったかのような風潮をも感じる。
今現在、僕の勤める校舎の近辺エリアにおいて、電光石火の対応の早さで修学旅行が立ち消えとなった学校が1つある。
一応他の学校は現在予定されているらしいものの、緊急事態宣言が出たら、多分潰れるだろう。(気の毒だが、前例も存在していることだし)
となれば、体育祭も密だからナシ、文化祭も密だからできないよね、じゃあ卒業式もできないじゃ~ん、という風になし崩れていくのがちょっとだけ予想できて嫌だ。
だが、僕は単にイベントの可否以上に、生徒たちはもっと大きなものを失うような気がしている。今日はそれについて愚痴を書く。(1000字行くかどうかだけど)
イベントは単に「おもいでづくり」に実は留まらない。多分非常に貴重な、強制的とはいえ全員が一丸となってイベントを創る機会なのだ。
例えば、体育祭を考えてみよう。
まず先生たちが日程を決めはするのだが、基本その後の設営は生徒が担当するものだ。実行委員会が形成され、応援団も募集され、体育の授業はダンスの練習となる。
スローガンは全校生徒に募集をかけるし、テントの設営もよく考えたら生徒がやるものだ。ノリノリのヤツもいれば、不満タラタラな僕みたいなウンコもいる。
価値観も温度もバラバラの生徒が、主体となって1つのことを創り上げていく。この機会、実は思い返すと、人生の序盤においては学校行事以外にまず無いのだ。
「思った通りには人って動かないよね」とか、「ある程度から先はやってみないとわからないよね」といった教訓は、ゼロからイチを生んでみないと、やはりわからない。
そして何より、大人になってからこういう経験を積もうと思ったら、実はかなりしんどい。リーダーシップが取れないと、人が離れていくためだ。
学校行事においては、やらないという選択肢はないため、何だかんだで人は離れない。上手くいかなくても普通だよねという文化もあるため、超やりやすい。
初めて組織を動かす側に、エンタメを創る側に、曲がりなりにも立つチャンスが、この学校行事なのだ。
・・・だけれども。
こうしてコロナコロナでイベントが立ち消えになる以上、マジで生徒たちは勉強以外してないんじゃなかろうかと、心の底から可哀想になってしまう。
それは何も「たのしいおもいでがなくてかわいそう」という次元の話では無い。勉強しかできないと冷笑される未来がちょっと見えるからなのだ。
ぶっちゃけ僕は体育祭なんて「運動ができる人間できない人間を十把一絡げに白日の下に晒す公開処刑の場」としか考えていなかったが、10年も経てば少しは肯定できる。
「あれは、あれで、いっか」といった感じに。集団行動によって何かを成し得たときの喜びは、何だかんだで結構大きいのだ。(苦労も同様に、だけど)
このカオスに対し「学生の本分は勉強だ!!」と言ってくる人の大半は、ちゃっかり部活やイベントを経験している。なんかこう、マウントにしか聞こえないよね。
ゼロからイチを、不特定多数の協力を集めて、試行錯誤しながら創る。繰り返すが、これをプラベで、私塾で積める人、いるの?
コロナ禍で失われているものは、多分思い出だけじゃないんですよねー。もちろん健康と人命が第一ですけど、さ。
・・・ということで、提案もクソも無いただの愚痴でしたが、今日はこの辺で。