精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【ぼやき】地方の中高生までもが積極的にインスタライブとかをしていることに、僕は彼ら彼女らの”寂しさ”を感じている。

スマホを一定時間禁止する施策として、【Malware bites】なるセキュリティソフトのフルスキャンを行っています。結構これいいよ。中元です。

 

はい。これを聞いてどう思うかは場所によりけりだと思うのだが、最近【Tik Tok】とか【Instagram】の盛隆が、特に中高生の間でものすごい状態だ。

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どれくらいすごいかと言えば、もはや共通文化のレベルにまでなっているくらいであり、僕の世代で言うところの、遊戯王MTGに近い。

 

これについて、犯罪の温床になるから規制すべきとか、学習の時間を奪うから禁止すべきとか、理解できないから手を出すべきじゃないとか、色々意見はあると思う。

 

僕も正直、例えばどうみても美人さんなのに実は男といった配信主がなぜ猛烈な人気を得ているのかとか、外野としては理解しきれていない部分がある。

 

しかし、こういった”繋がり”を求め、それに熱狂するような状態は、何もおかしな話じゃないわけで。むしろ僕はそこに、彼ら彼女らの”寂しさ”を感じている

 

今日は完全なるぼやきだが、ちょっと私見を書き殴りたい。

 

 

つながることを禁止された世の中で。

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コロナ禍が奪っている最たるものとして、僕は特に、学校における【団結】や【共通の思い出】、そして【協力した記憶】といった【繋がり】がそうだと考えている。

 

今や友達と集まることさえ「何考えてんの!!」と言われる状況だ。結果、文化祭も体育祭も修学旅行も、大幅に縮小されたり中止されたりという目に遭っている。

 

こうなれば、大体の人が本能的に求める【繋がり】に、やはり人間は飢えてくる。特に感受性が豊かな中高生となればなおさらじゃなかろうか。

 

しかし、この現実社会では、「素顔すら知らない同級生がたくさんいる」と生徒が言ってくるくらい、対面のそれは希薄な状態になっているワケで。

 

ワクチンが出たからもうすぐ終息と言われたかと思えば、デルタ株がよくわからんけどヤバいからヤバいという風に再びかき乱され、もうみんな、大変なのだ。

 

―であれば、もう、オンラインで繋がりを得るしかない。そしてオンラインで、”ぬくもり”的な部分を持った繋がりを築くには、【ライブ】が一番なのだ。

 

・・実際、コロナが流行り始めた2020年代初頭から、実際にtik tokのダウンロード数がハッキリと増えていることがわかる。相関がありそうだ。わからんけど。

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そしてそのトレンドは今も継続中であり、こういったライブ配信系アプリの伸びは、今の今までずっと続いているようである。(たまに国ごとBANになって減るけど)

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https://www.businessofapps.com/data/tik-tok-statistics/

 

こういう寂しい背景がある一方で、このサービスはその欲求に完全に応えていると言える。だからここまで流行るのだろうなと、僕は勝手に納得している。

 

皆さんはどう思われるであろうか。

 

分断化された団結。

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―むしろ、こういうオンラインによる繋がりは、ある意味では学校行事等の団結より優れている部分もあるワケで。

 

例えば僕は、体育祭が嫌いだった。運動が苦手だったので、公開処刑の場とさえ感じていた程だ。もし選択制で体育祭への参加を拒否できるなら、絶対に選ばない。

 

ただ、文化祭はどちらかと言えば好きだったので、そっちは参加したかもしれない。ただしパフォーマーとしてではなく、観客として、だけど。

 

さて。学校行事は良くも悪くも、強制的に全部の行事へ参加させられるし、準備に協力しないといけないし、演者にも観客にもならないといけない

 

しかしオンラインによる繋がりは、完全に分断された状態なので、自分の価値観に合わない集団に属さないという選択ができるようになるのだ。

 

運動が嫌いなら、徹底して運動から縁のない集団を選べばいい。そういうことである。属する共同体すらカスタムできるのは、オンラインの利点だと思う。

 

―ただし、致命的な欠点も当然含んでいるわけで。そういった集団を選び続けると、基本異文化との出会いや、衝突からは、無縁になってしまう

 

例えば、運動が好きな人間は、僕の考え方を理解できない。だが僕は、運動が好きでたまらない人間の気持ちは理解できない。こういうことだ。

 

そういった異なる価値観の存在を避け続けると、結果理解できない存在を理解できなくなる可能性がある。

 

禅問答みたいだけど、要するに出会う人間の幅が極端に狭くなるという話である。

 

そういう意味では大体の人が強制的に属させられる【学校】は悪くないシステムだ。面倒なことも有益なこともそこで学びながら、娯楽はオンラインに求める。

 

住み分けはもう、地方であろうとかなり進んでいるのかもしれない。学校行事が無くなりつつある今、そのパラダイムシフトを、僕は肌身に感じている。

 

終わりに。

 

僕もいずれそっち側になるのだろうが、大人は新しい文化に不寛容だ。インターネットが出れば犯罪の温床と叩かれ、mixiが流行れば事件ばかりが喧伝された。

 

そして今は新たな文化として、ライブ配信だの、プロセスエコノミーだの、ビットコインだのの盛隆が凄い。理屈を追うだけで精いっぱいだ。

 

ただ僕は絶対に、生まれたときからそういった環境だった生徒たちと、思想や思考が同じになることはできない。文化さえも、20年違えば共有しきれなくなってくるのだ。

 

ありふれた例えだが、インターネットが無かったころの過ごし方をイメージさせるのって、非常に難しい。そういう感じに。

 

―しかし結局、「人間って何か共通言語を持つ人と繋がりたいよね」という原則を考えると、今の流れは何もおかしいことは無い。ただ技術が進化しただけだ。

 

僕らがドッジボール遊戯王モンスターハンター携帯小説に求めていた役割を、今はインスタやTikTokShowroomが担っている。それだけなのだ。

 

たんに趣味嗜好として僕はそういったライブをやる気はないだけであり、人のそれを観ることは、稀だけど少しはある。身近ゆえに、手を出すのも引くのも楽なのだ。

 

だからこそ、学校というフレーム内での繋がりを奪われている背景がある以上、中高生がアプリにハマることへ警鐘を鳴らのは、何か少しズレているよなと思わされる。

 

それよりも、例えば学校行事を中止したとして、代替案を全く出さないといった対応の方が問題じゃね、と考えている。その分授業をしても、さぁ。

 

地方の中高生までもが積極的にインスタライブとかをしていることに、僕は彼ら彼女らの寂しさを見ている。

 

タイトルのぼやきが回収できていたら嬉しい。では今日はこの辺で。

 

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