人見知りで内向的というのを全開にしていると、僕をきっかけとして自分を肯定しようとする人たちによくブチ当たる。いわゆるマウントの対象になり易いのだ。
「もっとバカにならんと」「気にしすぎだよ」「苦しんでるのはお前だけじゃないんだよ」「笑ってれば元気がでるさ」
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なるほど。そうなんですね。そう思います。そう返事しながら、そうできない自分を呪っていた時期は、結構長いこと続いた。
しかし今はもう、飽きている。社交的に振る舞う気持ち悪い自分こそ、僕が最も肯定できない僕の像だと気付いているからだ。
なるほど。そうなんですね。そう思います。飛んでくるアドバイスという名のマウントや自分磨きのセリフを左から右へ流しながら、今はだいぶ心穏やかだ。
無責任な理想像などクソくらえ。そう思うきっかけになるかな?ということで今週も読み進めていきましょう。
- 7月24日(月) 自分を知りたいのは誰だって同じ。
- 7月25日(火) 内向性を武器として再定義する。
- 7月26日(水) 僕にとって最たる夏休みの宿題。
- 7月27日(木) 押し付けられた「たのしさ」という地獄。
- 7月28日(金) 学校教育における内向的な生徒。
- 7月29日(土) 短所を潰すことのデメリット。
- 7月30日(日) 価値観の押し付けはなぜ起こる?
7月24日(月) 自分を知りたいのは誰だって同じ。
誰の言葉か忘れたが、「わたし」とは、「わたし」と「周りの環境である」といった言い回しがあり、その意味が最近急に腑に落ちた。
なぜそう思うかというと、それは自分という存在を理解するためには大きく分けて二つの観点があり、どちらを重視するかが内向的・外向的を分けると気付いたためだ。
内向的である僕は、「ぼく」の内面を観察し、自分を理解しようと努める。一方外向的な人は、「まわり」と積極的に交わることで、ぼんやり自分を見ているのではないか。
僕はドーナツの穴を見ている。他の人はドーナツ自体を味わっている。そんなことを考えた。こう書くと僕は損をしている気しかしないが、優劣はやはり、存在しない。
自分を知りたいのは誰だって同じ。これからも僕は、ドーナツの穴ってなんだという問いを向け続けて、自分を理解し、折り合いをつけたいと改めて誓った。
7月25日(火) 内向性を武器として再定義する。
本書も結論に差し掛かった。最終章は、これまでの総まとめという感じで、内向性が持つ魅力や、武器としての強みについて、改めて説くという内容であった。
僕も自分が持つ引っ込み思案なところをだいぶ許容できるようになってきたが、現状の自分を遮二無二に否定しなくなっただけで、不満が無いといえばウソになる。
僕はまだまだ、社会から求められる社交的でエネルギッシュな理想像というモノサシで、自分を測ってしまっている。そのことに今日、気が付いた。
内向的な人が己を許容するために必要なのは、一体何がどうなったら「上手くいった」「よくやった」と自分に言えるのか、そのラインを再設定することだと思う。
僕には目先の仕事をダダダっと10個も一気に処理はできない。アドリブで営業トークをして数値を取ってくるなんてこともできない。
しかし、終盤の詰めのために序盤で布石を打つような考え方は得意だと自負している。それもまた一つの成果として、過程を一つの完了として定義し、自分を労う。
僕に足りないのは、やっぱり自分への優しさなのだろう。いつまで周りを敵としてみているのだろうか。そろそろそこから卒業したいなと、改めて感じた。
7月26日(水) 僕にとって最たる夏休みの宿題。
僕が最も苦手とすることは何か。書いたか書かずかだが、それは自分への労いだ。具体的に言えば、休憩と休息が、やはりずっと下手くそなのである。
お盆休みやGWのように、仕事が数日間完全に止まる期間だと完全にリフィードできるのだが、フル休みが散発的な状況下では、そこで消しきれない何かが溜まる。
無理をしている自覚はあるが、だからといってそれを打ち消せるようなケアができている自信は全くない。貯金を切り崩して生きているかのようなスリルがある。
その日の疲れを持ち越さず、適切にコントロールする。根性論は無しで。そういう方法や思考体系を獲得することが、今夏の最たる僕の宿題だと感じている。
7月27日(木) 押し付けられた「たのしさ」という地獄。
学校行事は色々ある。体育祭、文化祭、合唱祭、卒業式、修学旅行、等々。白状すると、特に文化祭と体育祭は、嫌いだった。
あのパリピなテンションがすごく苦手で、バカになることを強制されるような雰囲気に耐えられないからだ。その日取りが近づくにつれて、僕は憂鬱になっていった。
体育祭は、運動のできる人間・できない人間を十把一絡げに白日の下に晒すイベントであり、僕らは運動ができる陽の人間の引き立て役たる雑魚に過ぎないのだ。
その反動もあってか、大学生の頃、そういう学生主体のイベントに、いわゆるホスト側で参加したことは一度もない。何ならその日程さえ知らなかったくらいだ。
押し付けられた「たのしさ」は、大多数の人には機能する。だからなかなかにいたたまれない。だが繰り返すが、今でも体育祭的なイベントは、思い出すと苦い顔になる。
外向的な人と内向的な人がお互いを尊重しながら暮らせる社会。その到来はまだ遠いなと、つくづく思わされる話であった。
7月28日(金) 学校教育における内向的な生徒。
「Quiet」という本が発売された当時、教育界から結構反響があったのだという。それは、自分が良かれと思っていた外向性の強制に関する反省の弁が多かったらしい。
その先生は、自分の目を覚ます強烈な一撃を”内向的な生徒から”食らったらしい。その強心臓な生徒のセリフはこうだ。
「先生。僕は言うべきことがあったら、挙手して言います。だからそれまでは、そっとしておいてください。」
・・・この言葉、僕は強く共感する。発言は目的ではない。目的ありきの発言なのだ。何か喋ればそれでいいなら、手を挙げて「うんちー」とでも言っておけばいいのである。
それを受けて、彼らの意見を発言以外で吸い上げる方法は無いかと、その先生は苦心したらしい。結果たどり着いた答えは、色々な形式のディスカッションだそうだ。
ある時は対話、ある時は文面。そんな風にすることで、本来欲しかった「アイデア」は、全生徒から等しく集められたそうである。
素敵な話だが、日本ではまだまだ定着しないだろうなとも思わされる、そんなお話だった。
7月29日(土) 短所を潰すことのデメリット。
短所は、自他両方の目線から、よく注目される。ダメなところなんだから、それはしっかりと直さなければならない、球体で言う凹みのような部分。
短所だらけの人間はジャガイモのような形状であり、それを真球に近付けていくのが今生の修行。
僕はそういう考えを、今なら浅はかだなと冷ややかに見つめられる。真球のような人間は、つまり何にも特徴が無いのと等しいからである。漫画で言う背景のキャラだ。
内向的で、闊達な意見の発信が苦手なら、意見が言えるように訓練するのも確かに悪くないが、自分が不得意とする技能を鍛えても、よくて平均水準に届くかどうかである。
むしろ、自分が既に偏差値で言えば60くらい取れている何かを伸ばしまくって、偏差値70レベルの水準にした方が、個性としてこの上なく際立つし、有能認定されるだろう。
実際、僕は話が聞けないのでその例外なのだが、内向的な人は人の話をしっかり聞けて、深く物事を咀嚼できて、先の手まで考えられるという強みがあるという。
もちろん、「そんなんいいから授業中に挙手を・・」と言いたくなる気持ちは、理解できる。
ただ同時に、強みを削って短所を埋めて、真球に近付けることのリスクを承知した方が良い。
何かで突っ切ってしまえば、短所も魅力、つまりは愛嬌なのだ。つくづく、そう思う。
7月30日(日) 価値観の押し付けはなぜ起こる?
価値観というのは、その人が勝手に矜持として持っておくべきものであり、人に押し付けるのはお門違いである。それは頭では納得している。
しかし僕も無意識に、「べきだ」論を他人に語っていることがある。その都度、猛烈な恥ずかしさに見舞われてしまう。
価値観の押し付けはなぜ起こるのだろうか。なぜ内向的ではダメで、外向的でなければダメなのか。
今ならなんとなくわかるのだが、自分を肯定する材料に欠けているとき、価値観の押し付けは発生すると感じている。
自分が正しいという意識付けを相手に刷り込むための努力。それは何を得る為なのかというと、それによる自己肯定ではないか。そう思うと得心する。
誰かに「そのままでいいんだよ」と言えないとき、僕が僕に同じことを言えないことを、それは暗示している。
他人に自分を肯定してもらうのではなく、自分で自分を肯定できるか。新たな闇と課題が見えた刹那であった。
―ということで今日はこの辺で。