僕の休みの日を狙って雨が降る。完全なる偶然なのですが、2か月くらい連続すると勘繰るものが正直あります。中元です。
さて。いきなりだが、【論説文】の読解、皆様は得意だろうか?ちなみに僕は、特に苦手とも得意とも思ったことは無い。
というより、そもそも【論説】とは何かを説明することが難しいと思う。そこで、まずは定義の紹介から書いてみる。
ついでに、論説文とは何か、について話しておきましょう。
決まった定義があるものではありませんが、創作文との違いは、何かのテーマについていくつかの事実(ディテール)を挙げながら論じ、最後は自分なりの考えや意見、提案をまとめた作文です。
プロの評論家の批評文や新聞の社説などをお手本にするのは構いませんが、欠かせないのは筆者、つまりあなた自身の考えや意見が入っていないと、論説文としてはなりたちません。
誰かの意見や、いわゆる天の声のような借り物ではない、筆者の意見です。
(中略)
つまり、他人に意見が伝わる、説得力を持った論文こそがいい論説文なのです。
てな感じ。すごく乱暴に言えば、ピタゴラスの定理の証明は【説明文】になるが、それについて感想とその理由を添えれば、ある種の【論説】てな感じじゃなかろうか。
さてさて。僕がいる県の国語の入試問題は、ジャンルとしては説明文と紹介されていても、その実はほぼ全て論説文である。
つまり自然科学の説明ではなく、例えば「掃除ができる人って仕事もできるよね」という自説を、根拠を添えて説明するといった類の文章がほとんどなのである。
―となれば、そういった文章を読める生徒を学校に迎え入れたいという思惑が、県教育委員会にあることになるのだが・・。それって、なぜだろう?
それをふと考えていたとき、僕の中でピンと閃くものがあった。まだ言葉にできるほどまとまってはいないが、取り急ぎ記事に書いてみようと思う。
自分のそれとは違うロジックの存在を理解しているか?
論説文の読解ができるかどうかでわかること。
それは、自分の価値観とは違う価値観で思考する人間の存在を、理解しているかどうかだと僕は考えている。
―こんなもの、当然と思われるだろうか?ところがどっこい、大人でもこれが苦手な人を散見する。
極論を言うと、「なんであいつは俺の思い通りにならないんだ!」とイラつくことがある人は、多分今でもそのことを理解できていないとみて間違いない。
さて。論説文は大体、「他の人はどう思うかはさておき、俺はこれについてこう思うんよね。なぜかというとさ・・」という構成になっている。
そしてそれについて、こと小・中学生が思うことはほぼ1つだ。
「俺はそんなこと思わねーし」
―この感覚を持った瞬間、読み取りはおぼつかない。主観も入り、精度はガタ落ち、結果点数も奮わないだろう。
逆に言えば、「まぁそういう人もいるよね」とか、「この人はこう思うんだ、ふーん」と言った風に割り引ける人は、論説読解の点数が高い印象がある。
要するに、他者のロジックを理解する力という話なのだろう。確かに、この力を持った人間を、レベルが高い学校は迎え入れたいのは納得だ。
対義に当たるものは価値観の押しつけであり、これが全開の人は確かにめんどくさい。ならば、事前にそのケがある人は排除したいよね、と。
たかが論説、されど論説。これがこっそり確かめている力は、思った以上に怖い可能性があるってことなのかな。だとしたらガクブルだぜ。
【論理ゲーム】で異なる価値観を理解する。
この力を鍛える方法として、【論理ゲーム】というものを紹介したい。仔細は異なるのだが、ひろゆき氏の著書にあったゲームである。
これが何かというと、「目の前で起きている現象を【分析】し、【仮説】を作り、その通りに機能するか【質問】や【検証】をして確認する」という遊びだ。
・・・よくわからないので、一例を紹介してみる。
例えば、「机を掃除すると怒る人」について考えてみる。机をきれいにすると良いことがあるように思うのに、何故そう思うのだろうか。【分析】してみよう。
まず具体的な掃除のメリットは何だろうか。清潔感が生まれる?単純に作業スペースが広くなる?心が整う?まぁ、色々だろう。
では逆に、掃除しないことによるメリットは何だろうか。どうせすぐ使うものだから、仕舞うだけ手間?逆に落ち着く?単に、その状態を気にしていないだけ?
―なんにせよ、その本人の中では、掃除しないことのメリットが、するメリットを上回っているからこそ、掃除に手を付けないのだろう。
・・・ではなぜ、人に掃除をされることすら嫌がるのだろうか?そういえばこれについては、自分にも似た体験がある。
僕は部屋の掃除が嫌いで、勝手にされるととてつもなくイライラしたものである。―その理由を分析すれば、その人を理解する一助になるかもしれない。
考えてみたが、僕は僕なりの秩序をもってモノを設置しているのだが、それは他の人から見れば汚くみえてしまうあり様なのだという。
だから他の人がその人のロジックで掃除をされると、僕からすればそれを乱されるのに等しいという話なのだ。つまり、散らかされているのと同じ。
もしかしたらこれと同じ心理がその人に働いているのかもしれない。ただ、めちゃ汚い状態がオープンスペースに丸見えなのはいただけない。
だから【仮説】を立てる。プリントとかそういう"使うアイテム"を片づけられるとイラつくのだが、ゴミを捨てられる分には、僕はあまり気にならない。
ならば実際に、「どう考えてもゴミ」に当たるものを机から消してみて、どういうリアクションを取るかを【検証】してみたらどうだろうか?
そして本当にやってみた。留守のときを見計らい、紙コップだの、破れたプリントだの、お菓子の切れ端だのを一掃してみたのだ。
―それについて、特にコメントは無し。なんなら、気に留めてすらないというくらいにノータッチ。
なるほどね。掃除をしたら怒るけど、ゴミを捨てる分には怒らないのね。これは一つ勉強になった。
では今度は、出てるものを仕舞ったら怒られるかどうかを試してみようかな・・。
といった感じである。ちなみにこのプロセスをきちんと書き言葉に起こし、最後に僕なりの感想を足せば【論説文】となる。
暇つぶしにも面白いゲームなので、ぜひともやってみてほしいし、やらせてみても欲しいと思う。
終わりに。
論説文ができるかどうかで、他者のロジックを理解できるかどうかが問われる。
これはなかなかに怖い話だが、僕はそういう側面もあるからこそ、入試に早い段階から課されるのではと思えてならない。
皆様はどう思われるだろうか。
では今日はこの辺で。