精神年齢9歳講師のブログ

"よいこ"から程遠い目線から、授業のネタ、講師としての日々、そしてたまには教育や子供について、真面目なことを基本毎日書いてます。

「国語」の読解問題ができない人間に手渡されるのは、絶望的な世界へのほぼ片道切符だ。

「読解力」に関する話を思うと、最近はいわゆるアンチが生まれる余地というものに意識が向くようになっている。

 

答えに合わせて自分の発信を変えるのではなく、自分の発信したいことに合わせて事実や意見を捻じ曲げる。絡まれると、やはりただただ面倒くさい。

 

「揚げていない揚げ足を取る」という表現をどこかでみたが、なるほどしっくりくる。今までちゃんと国語の授業や勉強に触れてきたのか、心配になるくらいだ。

 

・・・ところで、こういった人たちの思考回路では、絶対に高得点が取れない試験があることを、ふと思い出した。それは高校・大学入試だ。

 

そしてその問題傾向などを少し思い返すと、なかなかに合理的だが闇の深い背景がそこから透けて見えたような気がした。

 

今日はそんな闇のお話を書いてみようと思う。

 

 

ふるいにかけられる者達。

 

センター試験も共通テストも、現代文の文字数は極めて多い。ちょっと調べてみたが、2022年の共通テストは、評論と小説で約13,500文字も使われているそうである。

 

もうこの時点で、いわゆるアンチとされるSNS上に湧く人たちはお手上げだ。Twitterの文字数制限は140字程度だが、彼らはそれを超えると読み切れないそうである。

 

段落と段落はおろか、文と文もキツく、単語と言葉尻を捉えて意味不明な理解をする。バカの壁ではないが、言葉を尽くしても話が通じないのはここが原因だ。

 

実際、ある程度の文字数(2,000文字程度)を投稿するだけで、そういう人たちの発生率は顕著に下がるそうだ。(仮に湧いても、別の良識あるユーザーから徹底的に扱き下ろされる)

 

入試の国語に話を戻そう。たとえ文字を目で追えても、キツい話は続く。選択肢を吟味し、比較し、論理的に正しい方を選ぶには、非常に客観的な視点が求められる。

 

そういった沈思黙考的なことは、感情で物事に反応する限り、全くもってできそうもない。感情論だと失点するのは、小説問題を解いているとよくわかる話である。

 

しかしながら、評論や小説が、そもそも内容を全く理解できないほど難解なことは稀有だとも思う。頑張れば読めるし、専門的な論文も出題は無い。

 

本気で難解な小説が読めるかどうかだけなら「金閣寺」等を問えば良いと思うのだが、そんなことは無さげだ。

 

レベル的には、どの年度の本文であっても、賢い中学生なら読むこと自体は可能である。

 

となれば、語彙力があることより、膨大な文章を処理できるか、感情的に物事を判断しないか、事実を曲解しないか、そういうプロセスそのものを問うているように思う。

 

逆にこれら全てができない人、つまり文章を読めず、感情的に判断し、事実を曲解する人が入学してこないよう、ふるいにかけることが目的ではないか

 

僕は地方国立に通っていたのだが、その環境でも、現代文の点が良かった人でアンチ的な言動をする人はほぼ居なかったように感じる。

 

ただ社会に出れば、あるいはSNSを開けば、一旦視界の外に出ていたそういった存在が、再び目に入るようになる。恵まれた環境にいたことを、今更実感している。

 

国語の読解ができない人間には、絶望的な世界へのほぼ片道切符が手渡される。感情的に曲解する人間の周りに居たい人など、肉親でもない限りいないわけで。

 

だからか、アンチを救いたいという人は、不思議と聞かない。むしろ無視するか、利用するか、訴えて潰すか、遮断するか、そういう対策ばかりが並んでいる。

 

分断は加速する。それはもう仕方ないのかもしれない。実際僕も、そういう人たちに国語の授業をしてほしいと言われても、反射的に拒否するだろうし。

 

抽象的な言い方になるが、国語の力を日々継続的に鍛えることは、ひいては社会に参加させてもらうための必須条件の1つなのかもしれない。

 

ということで今日はこの辺で。

 

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