精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

『僕はずっと、無知でありたい』

ぶなしめじを100gくらい食うと、次の日の便通が異常に良い中元です。ありゃ最強の食物繊維かもだぜ!!

 

今日はただの決意表明というか、日頃からそう思っていることというか、そんな話を改めて書こうかなと。

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僕はよく、「頭でっかち(笑)」とか、「考えすぎ、良いから動け(笑)」とかで、上の人からからかわれる。入社当初ほどでもないが、今でもなんだかんだで、ゼロではない。

 

だが、経験値も少なく、歴も浅い僕が、闇雲に行動を起こして何ができるのか?それがずっと疑問だったので、ありがたい助言も無視して、勉強をつづけた。

 

英検準1級・1級、学習障害ADHD、コミュニティ論、集団授業の指導法、アクティブラーニング、ビットコイン、NFT・・・・

 

最初はある種の義務感というか、仕事上の必要に駆られて勉強していたが、今は単に「知りたい」という気持ちだけでこの辺の勉強には取り組めている

 

もちろん日々の仕事(授業だけでなく雑務)の合間を縫う感じになるので、負担はなかなかに重たい。僕は中堅の立場になろうとしているのだが、仕事量は増加の一途だ。

 

でも僕は、塾講師だからとかそういった理由ではなく、この習慣は持ち続けたいと考えている。

 

いうなれば、僕はずっと、無知でありたい。知らないことがあるという状況を歓迎し、それを何なら楽しみたい。例え、上の方に冷笑されても。

 

今日はそないなお話である。

 

 

というよりそもそも・・・。

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そもそも論だが、「知っている」と豪語する人、すなわち勉強習慣を放棄した人で、僕は大物をあまり知らない

 

むしろ、「知らない」ことを肯定する人ほど、それをモチベに勉強を深めて、膨大な知識を得ている印象さえある。

 

つまり、ひたすらに勉強習慣がある人を揶揄することで何かしらの優越を得ている人は、割ともれなく衰退がはじまっていると解釈してよさそうである。

 

これは悪口でもなんでもなく、先駆者が異口同音に唱えていることであり、もはや真実に近いのではないかと思う。

chimney.town

 

・・そしてそもそも論に戻るのだが、僕が尊敬する人や、人生楽しそうな人って、いっつも何かをずっと勉強している気がする。

 

これはテキストを開いて参考書を読み解くという意味ばかりでなく、実際に体験して知識を使い、それによる経験・仮説を蓄えるという意味も含んでいる

 

例えばスカイダイビングの歴史を調べるのも、実際に体験して感想を持つのも、同じく「スカイダイビングの勉強」なのだ。そこに貴賤は、本来無いはず。

 

しいて言えば、経験の付随していない知識は基本的にハリボテなので、どちらかと言えば行動の方が尊いよなとは思う。

 

だがこれらは、やはりどちらも欠かせない両輪と考えた方が正確だ。

 

―とにもかくにも、勉強も行動もせず、上から目線を維持するようになったら、その時点で人生終わりも同然というのは肝に銘じたい。

 

そういう強迫的な意味でも、やはり僕はずっと、無知であり続けたいと思う。

 

ただし、知らないことをエネルギーにしなければならない。

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しかし、忘れてはいけないことがある。知らないことに対し、開き直ったらダメということだ。

 

もし「知らない」のなら、もちろん興味があるもの限定では良いだろうけど、「知ろうとしなければならない」のだ。手を変えなければならないのだ。

 

例えばこないだ、塾で新たな販促キャンペーンを作ろうという動きがあり、あるアイデアが採択された。

 

ただそれの裏では、「あれはうまくいかないよ」とぼそっと呟く人が何人かおり、結果その通りになったため、「ほらな」というオチになってしまっていた

 

この時僕が感じたのは、ただならぬ違和感だ。上手くいかないというデータなり事例なりがあるなら、どうしてそれを提供して、違う手を使うようにしなかったのだろう。

 

もしかして、一度失敗させて、そこから教訓を得させようという狙いなのだろうか?

 

だとしたら、それはマジで、「俺が苦労したのだからお前もそうしろ」という理論である。生産性が無いと思えてならない。

 

それが悔しいので、僕はこっそり、さらに別の販促方法をずっと考えている。あのやり方がダメなら、このやり方ではどうだろうか、それだけを考えながら。

 

ただ悔しいことに、それはなかなか当たらない。だがそれは、これも当たらないというデータを得られたということだと考えて、その都度違う手に変えながら試している。

 

「知っている」ことに満足を覚えたら終わりなのだ。むしろ未知に突っ込んで、色んな分野から仮説を引っ張ってきて、ダメで元々、あれやこれやと実験したい。

 

とりあえず冬季講習の時期も近いので、多少不備はあるかもしれないが、近く僕は第4くらいの手を打つ所存である。

 

終わりに。

 

自分に正直になるという言葉の意味が、なかなかわからなかった。その正体がわかったのは、20代後半に差し掛かったころだ。

 

僕にとってのそれは、「自分が知りたいと思ったことをきちんと調べること」であったのだ。それに気づいてから、仕事も人生も楽しくなっている。

 

僕が大嫌いな言葉に、「たくさん勉強すれば、将来ラクしてお金がもらえる」というのがある。これを是とする人は多いようだが、僕は多分、退屈過ぎて死ぬ。

 

ラクして、ということは、開発した能力を使うことなく、という意味である。社会的にもロスになる以上、勿体ないというより何言ってんのという感じだなぁ、と。

 

これからも僕は、わけのわからないことに引っ掛かりを持ち、そして理解されない情熱をもってそれを調べるって風に生きるんだろう。それがいいや。

 

本当にマジでただの独り言になっちゃったけど、今日はこの辺で終わりとする。

 

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