自分が休もうとすると不思議とトラブルが舞い込みますが、処理速度がバカみたいに早くなった中元です。だって、休みたいじゃん!!!!
はい。昨日ふと思うことがあって、また【大局観】を拾い読みしていた。(羽生棋士の復活劇に期待)
語るだけ野暮なのだが、プロ棋士の合理的・論理的な思考プロセスを、ここまで言語化できる人はそうそういないと思わされるくらい、まず非常に文章が読みやすい。
その上で、「アウトプットが売り物」という意味では塾講師も共通点があるため、参考になる点も非常に多い。
そして今回読み直したかったのは、「水面下にある膨大な思考を立体的にして厚みを増す」という感じの記述だ。
そこにこそ、講師としての力量を高めるヒントが隠されていると思ったためである。てなわけで今日は、頭がよさそうなことを頑張って書いてみたいと思う。
100を知った状態の1は、とんでもなく重い。
安河内哲也氏の著書にも書いてあったのだが、100を知って初めて1を語れる、という心構えがある。この仕事をしていて思うのだが、本当にその通りだ。
例えば教科書や参考書を数ページ読んだら、その数ページ分の情報を語れるかと言ったら、そんなことは全くないので気を付けてほしい。
手前味噌だが、僕は社会の授業において、平安~鎌倉時代がそこそこ得意である。それはなぜかというと、インプットが多元的だからだと感じている。
平安時代については、冲方丁の【はなとゆめ】を読んで色々なことが入っているし、鎌倉時代は【Ghost of Tsushima】というゲームで体感さえしている。
その橋渡しの部分は、【平清盛】という壮大なドラマで補完した。もちろん学校の教科書も読んだし、高校日本史の参考書も読んでいる。
こんくらい色々と勉強しておけば、そうそう崩れない知識になる。しかしその全てを語るには、授業という時間はあまりにも短いし、不要な話も増えてくる。
こちらは知っている。でも、あえて語らない。説明として使われるのはほんの一部だが、その裏には膨大で立体的な思考がある。こういうインプットが僕の理想である。
これはもちろん、単に雑学に詳しくなればいいという意味ではない。そんなに単純な話ではないのである。
衒学的な話を生徒にしたところで、自分の心は満たされるかもしれないが、果たして誰に何を貢献しているのだろう。そこはシビアに見つめたい。
もちろん僕自身、日頃から読書とかその辺を、全て余すことなく説明にぶつけるために行っている・・という高尚なことを考えているわけではない。
単に知りたいから勉強している、という具合だ。時たまそれがガチャガチャと繋がって、ある種閃きに近い説明を生んだりするから面白い。
100を知って初めて、1を"語れる"。慢心してはならないと、つくづく思わされる。
ブレイクスルーを起こしたければ、まずはとにもかくにも勉強だ。
逆に、自分の中で何かしっくりこない単元は、シンプルに知識量が足りていないだけというのも結構多い。
これまた僕自身の体験談だが、英語の単元の中で、【仮定法】がかつて苦手だった。しかしそれは生徒も同じで、対策の単発個別が、一時期大量に出たことがある。
そうなれば、否が応でもこちらは勉強せねばならない。色んな参考書をひっくり返し、問題集を解き直し、色んなネタを溜め込んだ。
ある生徒に試したネタを、その反応を見て少し変えて、別の生徒に転用し、また別の経験値を得る。そういう作業も繰り返した。
すると不思議なことが起きたのだが、今や仮定法は得意な方になったのだ。知識と経験、両方ネタが溜まったことが理由じゃないかと思う。
苦手なところこそ、密に学習を深めること。これが、克服の要となる一手なのかもしれない。
ということで、今日は単なる思い付きのテーマによる記事だったが、今日はこの辺で終わりとする。