部屋を掃除するときに心がけることは、始める前より情報量を減らすことです。意味不明?掃除好きな人ならわかるかと。中元です。
はい。最近、すごく論理的な文章が書ける人のそれを読んで、国語が超できる人の感覚を味わうのにちょっとハマっている。(ヒント:厨二病)
そのうえ、また漢字検定対策の授業を担当し始めたのもあって、言葉や漢字が本当に意味する物は何かというところに、すごく敏感になりつつある。
そして最近疑問に思い始めたのは、【応用】という言葉の意味するところだ。問題集を解きまくっていると、単に難易度が鬼という意味にしか感じない。
しかし最近は、別にそういう趣旨じゃないとほぼ確信するに至っている。【応用】が意味するところは、そんなに浅くないと感じているのだ。
ってことで今日は、そう思う理由を中心に、記事を書いてみたいと思う。
そもそも辞書にさえ、【応用】とは難しいことなんて書いてない。
応用と添えられている問題を見ると、身構える方も多いのではないだろうか。発展問題のように、非常に難度が高く苦戦するそれのように感じられるからだ。
ーでは、実際のところはどうなのだろうか。こういう時はやはり、辞書を参照するに限る。すると、定義上はこんな意味だという。
原理や知識を実際の事柄に当てはめて用いること。
つまり、「実際に使ってみよう」という意味であり、かつ知識そのものを問うのではなく、それが使えるかを尋ねるよという念押ししか、この文言からは感じない。
では、英語だとどういった単語が【応用】と同義なのだろうか?調べてみると、以下の語句や熟語がヒットした。
applied mathematics(応用数学), application, use
「apply」とは、単語帳にも「適用する」という意味合いで載っていることから、やはり【応用】の意味は、難問ではなく、実際に使うことなのだとよくわかる。
しかしなぜ、【応用】は得てして難問扱いされやすいのか?それは非常に簡単で、知識を【応用】することは、大半の人にとって難しいからである。
例えば裁縫といった手芸が分かりやすい。道具の用途、記事の種類、技の名前など、その辺りはテキストを読んでノートに書けば、知識として頭に入れることは可能だろう。
しかしそれらの知識を使いこなして、一つの作品を作るとなれば話は別だ。よほどの才能や素養がない限り、成功することは稀だろう。
きっと僕は、簡単なぬいぐるみ一つさえ作れない。知識を暗記することは得意なのだが、それを【応用】できるかどうかは別問題なのだ。
ーということで、やはり【応用】の意味合いは、得てきた知識を組み合わせて問題を解けるかどうかという点にあるとみてよさそうである。
この感覚そのものは、実は部活でも趣味でも勉強でも何でも、その要素が含まれる活動を通じて、練習し経験を重ねることで、十分に養うことができる。
知識を覚えるだけでは解けないが、知識が無ければそもそも話にならない。色々と冷厳な事実が、そこに内包されているように思えてならない。
よく受験雑誌に書いてある、【基本】が解ければセンター6割の本当の意味とは?
となれば、学生の頃に半信半疑だった教訓にも、また違った思いを抱く。それが、「基礎基本が解ければ、センター試験で6割は取れる」というものだ。
変な自慢になるのだが、僕は高校の頃、数学の定期テストで満点を取ったことが2回ある。だから基礎基本はできると、結構勘違いしていた。
それゆえ、模試でタコ殴りにされるたび、「いい加減なこというんじゃねーよ!」と受験雑誌内で助言をくれていた講師たちに勝手に憤っていたものである。
だが今ならよくわかる。誤読していたのは僕の方であり、おそらくその真意を全く理解できていなかったのであろうということに。
例えば、フライパンを振ったり、材料名を言えたり、各調味料の味を暗記していたりといった部分に当たる点は、僕もできていたのだと思う。
だがそれらを自在に組み合わせて、料理を作る練習をサボっていたのだ。だから応用問題ばかりが立ち並ぶ模試に、歯が立たなかったというワケ。
これを踏まえれば、先の助言には"ある省略"が存在するとわかる。それを補って改めて紹介すると、本来はこっちの意味合いに近いはずだ。
「基礎基本が(ほぼ自動的に)解け(るまで練習を繰り返せ)れば、センター試験で6割は取れる」
こう書いた方がしっくりくる。おそらく僕の周りの秀才たちは、ここまで汲み取って理解していたのだろう。自分のアホさに眩暈がする。
これに関する、ある話を思い出した。「決断力」を読むと、【応用】に転じるためには、知識から知恵に昇華させる必要があるという風な話が書いてある。
そのためには、アイデアを実際に使って、自分なりの試行錯誤を試し、また練習するという風に、実践・反復しなければ始まらないということも添えられていた。
ーやはり、物知りが評価されるのはせいぜい雑談までってことなのだろう。例えばどんな天才も、スマホを持った子供を相手にすれば、知識量では完敗だ。
知ると使えるは全然違う。改めて気を引き締めようと思うのと同時に、それをヒントとした指導や教材なども、まだまだ作成できるという可能性を感じた。
なんか改めて学習が面白くなってきた。願わくば10年以上前に気付きたかったが、気付かずに死ぬより遥かにマシだと解釈して、前向きにあろうと思う。
終わりに:基本に通ぜし者、精髄に至る。
終わりに、好きな言葉を載せておく。それは、「基本に通ぜし者、精髄に至る」というものだ。尚、元はシェンムーというゲームらしいのだが、僕は未プレイである。
だがこれは、決して基本ばかり練習し、その1つ1つの習熟度を単独で高め続けることは意味していないだろう。その罠に嵌ると、精髄はおろか、成長すら無い。
僕自身、趣味でも学業でも、自分の中で確かな成長を感じる場面はいくつかあった。そのすべてに共通するのは、別々の技量や知識が繋がったという感覚だ。
ジョブズの言葉にも、【Connecting The Dots】というものがある。しかし繋げる以前に、点に当たるものが自分の中に無いと、何もシナジーが生まれない。
その点のことを、「7~80点は取れる何か」と表現する人もいる。僕も同じ意見で、練習さえすれば大抵誰でも形にはできるものがそれだと考えている。
例えば最近は消滅しつつあるそうだが、組体操のポーズであったり、縄跳びでいう二重飛びであったり、リコーダーの独奏だったり。そういうのがイメージしやすい。
こういう"点"を作り、同時に求められる状況下に応じて、それを用いる。応用とはまさに読んで字の如しだなと、改めて思った。
では今日はこの辺で。