今日はこれから、教育相談が四連発です。先のことを考えたら鬱になるので、その都度目先のことに集中しておきます。中元です。
はい。最近、3~4回目の再読なのだが、【素数の音楽】をまた読み始めた。一般書ではあるが、結構難解なテーマであり、ぶっちゃけまだまだ消化不良を起こしている。
・・ところで、過去何度か書いてきたが、僕は数学オンチである。素数が奏でる音楽どころか、センター試験の誘導すらたまに「エ」くらいから聞き逃すアホだ。
そんな僕が、なぜこういう数学に関する本を読むのか?単に内容がドキュメンタリーとして面白いのもそうだが、もっと実利的な狙いもある。
それは、数学的な考え方を習得できれば、ストレス耐性が超増すという利点だ。
今日はそういう話である。
"どうすれば問題が解けるか"を考え続ける思考。
数学の難問が難問である由縁は、単に計算が複雑というのもあるが、既知のパターンで解けるように定義しなおすことが難しい点にあると聞いたことがある。
解説を見ると、「これ、知ってる公式とパターンじゃん・・」と気づいてがっかりした記憶が何度もあるのだが、難問はこれを巧妙に隠した結果、そうなのだと感じている。
―ところで、現実世界を見ても、結構似たような状況だと思われないだろうか。例えば大学や実用書で、公式やパターンといった武器は、確かに知ることができる。
しかし、それらの知識をどう使えば目先の問題が解けるかというのは、試行錯誤とセンスが無ければどだい無理な話である。
統計学的手法だとか相関係数だとかは、それ自身に最大の価値があるのではなく、それを使って世の中がどうなっているかを見ていくための道具なのだ。
一筋縄ではいかないでかい問題があったときに、「どうしよう!」と焦るのではなく、「手持ちの武器をどう使えば戦えるか」という戦略を考える。
あるいは、「あとは何のピースがあればこの問題を解けそうか」という道筋を考える。僕は瞬時に、こちらに意識を向けられるような思考のクセが欲しい。
ただ今さら数学の問題集を解き直すわけにもいかないので、もう実戦の中でやっていくしかないと思う。最短ルートだが、一番擦過傷が多いやり方。
上手くいったという結果は勿論だが、上手くいかなかったときに「なるほど、じゃあこうしよう」という判断ができることを喜べるよう、ドライに頑張りたいと思う。
※ちなみにアカデミックな知識を俗的なトピックに応用する方法と楽しさを学ぶには、以下の大著がオススメである。
そうなんだから仕方ないか、と割り切る力。
ところで、数学もとい数字の際たる特徴は、一切の異論を差し挟む余地がない厳密性にあると僕は感じている。
”素数は無限にある”ということに、「俺はそう思わない」というヤツはちょっとクレイジーだ。そう思うのは、その厳密性ゆえ、である。
・・・そういう風に、定義ありきで考えると、結構バッサリ世の中のストレスの基を断ち切ることができると思うわけで。
例えば、SNSは当然として、皆様の周りにも一人くらい、やたらと他者を攻撃する人がいると思う。これは、なぜか謝罪を強固に求めることも含む。
こういう存在に対し、「見捨ててはならない、きっとわかってくれるはず」といった謎の正義感を抱く人もいる。
ちなみに僕は、あまりそう考えていない。むしろ関わってはいけないと感じている。その辺は、ダークパーソナリティーという知識を得ると、よくわかる。
ってことで僕の中では、以下のフレーズがある種の数学における定理のように刷り込まれていると言っていい。
「他者を攻撃する人は、それを快楽と感じている可能性が高い。快楽である以上、止めることは極めて困難である。ゆえに相手にするべきではない」
余談だが、やたらと不祥事に首を突っ込んで盛り上げたり、他者の口を滑らせた発言をスクショしてまで残したりする人は、大抵、それが楽しいからやっているそうだ。
純粋な動機ゆえ、防ぐことが難しい。野球が好きでそれにのめり込む少年に、「野球をするのは良くないことだからやめろ!」と言うのに同じらしいのだ。
ということで、考えても仕方ないことについては、「そうなんだから仕方ないよね」と割り切るくらいがちょうどいい。
この感覚は、例外がほぼ認められない数学という学問の考え方に触れまくることで、段々と染み込むようにわかってくるように感じている。
ただし厄介なのだが、世の中やはり、「思いて学ばざれば則ち殆し」。考えても仕方ないと全てを割り切ると、究極的には差別思考とかに落っこちることもある。
論語って言い得て妙な教訓が詰まっているなと、今更ながら驚嘆である。
ってことでやたらと散文的になったけど、今日はこの辺で。