僕は子供のころからずっと、昆虫や魚が大好きであり、同級生が訝しがるほど熱心に図鑑を読み漁り、野外でその生態を観察し続けた。
一方、なぜ10円玉をお酢に漬けると輝きを取り戻すのかとか、炎色反応の美しさとかに魅力を感じ、没頭する同級生もいて、僕は彼らを訝しがっていた。
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人間、何に興味を持つかなど、分かりっこない。ただ、没頭できる対象を見つけられないこともまた、それはそれで意味不明なのだと、強く思う。
対象こそ違えど、夢中になって探求した先に見る世界は、もしかしたら繋がってくるのかもしれない。これはただの仮説にすぎないのだけれども。
それがどこまで正しいかは、読了すればわかるのかもしれない。だから今週も読み進めよう。
- 10月9日(月) 「知る」とはなにか。
- 10月10日(火) 「瞬間」とはなにか。
- 10月11日(水) 何が今を決めているのか?
- 10月12日(木) 追認は未来の仕事。
- 10月13日(金) パラレルワールド。
- 10月14日(土) 深淵を覗き続けた者。
- 10月15日(日) 神のお告げ?
10月9日(月) 「知る」とはなにか。
「知る」とはなかなかに定義が難しい言葉である。こと科学においては、その定義は結構曖昧だし、ただ見方によってはかなり厳格だ。
例えば厳密な数学的ロジックによって、この現象が起きるはず、あるいはこういう物質が存在するはずと結論付けられたとする。
しかしそれは、ただの予言や予測であり、実際に観測されることによってはじめて、それは存在したことになり、人々が”知る”ところとなるのだ。
とはいえそれが未来永劫変わらないかと言われればそんなことはなく、天動説や定常宇宙モデルのように、現状にマッチしていても消えていった説は存在する。
僕らは永遠に、「知った」状態になれないのではないか。となれば俺は知っているぜと吹聴する人が、愚昧を通り越して滑稽に思えてくる。
全ては何事も、一時的な点に過ぎない。それくらいが丁度いいのかもしれない。
10月10日(火) 「瞬間」とはなにか。
アキレスと亀というパラドックスがある。すごく乱暴に言えば、「何かに追いついたときには、その対象は必ず少しだけ先にいるよね」というロジックだ。
100mもの差があったとして、最初のカメがいた地点にたどり着いたときには、カメは10mくらい先にいる、そして10m進めばカメは1m先にいる、以下エンドレス。
これは難解な「論理」なのだが、似たようなジレンマは、数学でも起こりうるらしい。ある瞬間の速度を求めることはできるが、方向は無理だよね、というものだ。
例えばこのボールが秒速5m(適当)で飛んでいるとする。この時無意識に、僕らは→か←に進む世界を想像するが、現実には↗もあれば↑もあるわけで。
瞬間の速度は、その情報を消してしまう。ゆえに突き止められなくなる。瞬間を知ることは、つまり不可能なようだ。
・・・・これこそが第6章の謎の始まりであった。まだまだ物理の世界は続くようだが、最近微分積分を学び直したので、まだマシではある。そう考えることにしよう。
10月11日(水) 何が今を決めているのか?
数学的予測こそが絶対という考えをあざ笑うかのように、粒子は振る舞う。時として波に、時として粒のように、それは模様さえ変えてしまう。
数学による計算、予測の強みは、特定の方程式に適当な値を入れることで、未来がわかることにある。
しかし、ここでいう「わかる」は、もしかしたら不適切なのかもしれない。少し弱気になるが、あくまでもIfルートの1つを示すだけなのかもしれないのだ。
昔、東大生が本気で物理を計算し、ロケット花火の落下点を推測するという企画が、地上波で流れたことがあった。
結果は屋外で行われたことによる気温・湿度・風速・ロケット花火の材質などが重なって、予想とは少しずれたところの着弾となった、気がする。
厳密なロジックを重ねても、到来しないことには未来は見えない。実はただそれだけの話なのかもしれない。
10月12日(木) 追認は未来の仕事。
予測が正しいかどうかは、未来の観測を待たねばならない。未来が到来し誰かがそれを観測して初めて、確定の現実になる。
量子力学で繰り返し説かれる、複数の可能性が同時に存在する世界の在り様とは、シュレーディンガーの猫を読んでも言葉遊びのようにしか思えず、少しもどかしい。
ーしかし前にも書いたが、未来予測とは本来こういうことの繰り返しではないか。現実は数学ではない。変数を入れれば未来が即座に決まるほど、単純ではないのだ。
とはいえ部分部分においては、何かしらの要因で未来が決定されるような要素もある。
そうでないと困る場面もしばしばだ。
ただ基本、未来は不透明で、だからこそ面白いし無駄に不安になっても仕方ないよねと、どこか鷹揚に、あるいは切り離した思考でいるくらいが、生き易そうだといえる。
明日の僕は何をしているか。予想は立つが、それが当たるかどうかは明日わかる。もっとも、そのことに明日の僕が興味を持っていれば、だが。
10月13日(金) パラレルワールド。
並行世界という考え方がある。お互いに認識はできないのだが、例えば僕がいない世界もまた同時に存在し、並行して時間が進んでいる・・的なアイデアだ。
そしてもしかしたら、量子という摩訶不思議な、あるいはサイコロという奇天烈なランダム性・カオス性を持って振る舞うものを決める変数は、そこにあるのでは、と。
絶対に蝕知できず、存在の証明もできない別世界にトリガーがあり、だからこそ僕らはその精度を近似することが限界なのだと。
科学の極致は、フィクションや神話のすれすれに至るものなのだろうか。人智が追い付かないところに神は住んでいるというが、では神は並行世界にましますのだろうか。
10月14日(土) 深淵を覗き続けた者。
確定した未来を知ることは不可能であり、事象は観測されることで初めて、一つの特定された物となる。わかるようなわからないようなという話だ。
こういう摩訶不思議な、それこそ人智の限界に挑むような知恵比べを神と繰り広げるとなると、それに耐えられる存在の方が稀となる。
筆者は更にこの感覚を腹落ちさせるべく、ある人に会いに行ったそうだ。Wikipediaによると故人になられていたが、その人はJohn Polkinghorne氏という。
ファインマン氏の研究に更に打ち込み、同時に神学とも強い関係があったという彼は、この力学について何を語るのか。
一番記憶に残ったのは、「Howを問うのが数学・物理、Whyを問うのが神学の領域」といった言い回しだ。もしかしたら細部は異なるかもしれないが、面白い指摘である。
数学者・物理学者にとっては、地球がどうしてあの軌道で動くのかの説明は大切なのだが、なぜ地球である必要があったのか、というのはどうでもいいということだろうか。
問題は解ければいいのであり、その背景まではどうでもいい。それくらいにきれいさっぱり割り切ることが、何か必要なポイントなのだろうか。
10月15日(日) 神のお告げ?
「あなたは神を信じるか」という問いがある。今思えば、これはあまりにも曖昧で、定義づけもせずに答えることは不可能だろう。
例えば、僕は天上界に存在する個体で、一人一人の生殺与奪を握り得る何かという意味の神であれば、あまり信じていない。
しかし、比喩表現として、それこそ人間の叡智がまだ及んでいない領域の取り急ぎの説明として持ち出すのは、まだ腑に落ちると考えている。
神は大体、「どのように」のエリアにはいない。「なぜ」を問うとき、その存在が求められる。”なぜ”に答えるのは、極めて何度が高いのだ。
例えば素数が無限にあることは証明できるが、なぜ素数が無限にある必要があるのかを証明できる人はいない。
そこを一任するという意味では、なんだかんだ言っても、神はやはり偉大なのだと思う。
―ということで今日はこの辺で。