読みたい本、観たい動画、したいことが多すぎて、急に人生が短くなった心持がマジで強い中元です。絶望しきって死ねるかな。
はい。こないだのブログで、「頭の良い人」とは何か、みたいな話を書いてみた。
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結構な文字数を割いてこのテーマを言語化したつもりだったのだが、書き終えてみると不思議なもので、新しい仮説が湯水のように湧いてきて驚いている。
結局、「頭の良い人」とはどんな人なのか。考えれば考えるほど、さながらハイブリッドイメージのように、自分の中の定義がころころと変わってしまう。
こんな風に、全体像を理解するだけでも困難なのに、それをさらに詳らかに観察し、自分にも応用可能な方法や教訓を発見することは、果たしてできるものなのだろうか。
例えば、勉強ができなくても、頭が良い人にはなれるのか?
-僕はこの問いについて、「この2つはあんまり関係ないからイエスだと思う」・・という風に答えるとは思う。
しかし、その道が楽なものだとも思えない。もしかしたら、天賦の才を持っていることを前提とした話になるかもしれない。だが、言葉にしたら面白いという予感もある。
ということでこの記事では、いっちょ前にビジネス新書を一章くらい書くくらいの手間暇をかけて、さらに論を深めてみようと思う。
結構長くなるので、本気で暇なときにでもどうぞ。
- 改めて、「頭が良い人」の具体例から一般化へ。
- そもそも人間に期待していない。
- 必要最低限の仲間を、必要なときに集められる人。
- 【拒絶】の痛みを知りつつも、「この程度か」と思える程度に咀嚼しているか。
- 終わりに:僕らは「頭の良い人」になれるのか?
- おまけ:実は今回の記事では新しい書き方を試しています。
改めて、「頭が良い人」の具体例から一般化へ。
”頭が良い人”とは何か。ここを掴むため、まずは僕自身がそう思う人たちの特徴を取り出して抽象化し、そこから話を膨らませてみようと思う。
中学の同級生、大学の同期、社会人になってから出会った社長・・・。逆立ちしても勝てる気がしない知性と人間的魅力を兼ね備えた方々の顔を頭に浮かべる。
すると、真っ先に気付く共通点があった。とにかく【感情的になることがない】。つまり、どんなテーマに対しても、冷静さを失わないという点である。
例えば昨今炎上しているような話題についても、その攻撃的な反応たちは無視し、あくまで一つの事象として見つめる。まるで、歴史の教科書を読んでいるかのように。
こんな風に、感情的にならず、広い視点で考えて、わからないことがあればさっさと情報を集める。その間、立ち位置は努めて中立に置くことが多い。
色眼鏡だろうが、見事に全員、こういう考え方をしている。文字で表すだけでも、とても知的な印象を抱いてしまう。
達観。冷静。中立。これらの要因の集合体こそが、頭の良い人ではないだろうか。少なくとも、その一面ではあるはずだ。
感情的になりやすい人たちを、僕らはあまり頭が良いと評することはない。しかしその逆であるならば、そう評しやすくはなるらしい。面白い表裏の関係だと思う。
さて。この共通点を取っ掛かりとすれば、彼ら彼女らの言動や価値観について、もっと深いところまで分析していくことが可能なように思えてきた。
ということで続いての項では、「頭が良い人」とは何かについて、まだまだアバウトな仮説なのだが、より細かく考察していきたいと思う。
そもそも人間に期待していない。
先ほどの話にもちょっと通じるのだが、彼ら彼女らは、そもそもあまり”人間に期待してない”のでは、と思える場面が多い。
もっと言えば、他者が変わることを一切前提としない、とでも言おうか。このことが、彼ら彼女らのスマートな意思決定に、どのような影響を及ぼしているのだろう。
身近なところで、一つヒントになりそうな事例がある。最近生徒のひとりが通ってる高校で、こんなやりとりがあったそうだ。
感染拡大を理由として、修学旅行に行くかどうかを、生徒間の投票で決めるという発案があったという。ふたを開けてみれば、9割超の生徒が、実施に賛成したそうだ。
ところが一人、まるで読書感想文のようなボリュームで、修学旅行の実施に対し、激烈に反対する生徒がいたそうなのだ。
「感染拡大に繋がるから反対」「自粛する努力をしなければならない」「受験勉強に時間と労力を割くべき」・・みたいなことを、すさまじい熱量で並び立てていたという。
それについて現在、その意見をどう扱うか、果てはその生徒をどう説得するか、ということで、先生間で議論が交わされているらしい・・・。
とまぁ、こんな話だ。
こういう状況があったとき、頭が良い人はどう考えるのか。僕の友人の中でも、特に僕が尊敬する奴らならどう考えるか、少し妄想に近いが、考えてみた。
きっと、「そいつが行かなければ済む話」という風にバッサリいくだろうなと思った。頑固者は意見を変えることなどないのだから、説得など選択肢にも入れないのだ。
先ほどの例だと、【希望制】にして、行きたいヤツは行く、行きたくないヤツは行かない、それで終わらせればいいと、すごく自然に言うだろうなと思えた。
もちろんそれについて、足並みを揃えることを理由に反対する人たちは出るだろうが、「じゃあ多数派に合わせてください」と突っぱねる姿が想像できる。
自分に反対する人間の声を、意思決定に反映させない。足を引っ張る存在がいたら、説得するのではなく、影響がないようにしてしまう。だって人は、変わらないのだから。
言葉にすると冷たく聞こえるのだが、実際そうではないだろうか。人は基本、変わらない。例えばしばらく会わない内に別人のように変わった人を、僕はほとんど知らない。
ポジティブな性格ならまだいいものの、ネガティブな要素が強いなら、そもそも自分のコミュニティに入れない方がベターだと理解しているのだろう。
そういえば西野亮廣さんも、「人を叩いてこき下ろすのが好きな人間には、そのネタを与えないことが大事」ということを書いていた。
徹底して説明し、納得してもらい、集団全体が同じ考えを共有するのが美徳とされるが、性根から足を引っ張るのが好きな人はどうしてもいるのだ。
だからこそ、人が変わることをそもそも想定しない。反対勢力は必ずいるという前提で、自分の目的を達成するための方法を考える。
誰かから許可を与えられずとも、法に抵触しているとかじゃない限り、何の問題があると、ある意味居直る。堂々とそういえる人は、本当に頭が良いと思う。
―ここまで書いて、ふと将棋の対局に似ているなと思った。相手は絶対に自分の思い通りにいかない。その前提で、どの手を指すか、お互いが考え抜く。
だからこそ非常に高度な心理戦になるし、ある種のドラマであったり、芸術性を帯びた棋譜だったりが、そこに誕生することとなる。
他者は自分の思い通りになんてならない。その真理を受け入れたとき、思考の次元はひとつ上のステージに上がる。そんな好例だと捉えている。
鍛えの入った一手みたく、俯瞰した目線で達観した答えを出すためには、「みんななかよし」なんて夢物語だと悟っていないと、どだい無理な話なのかもしれない。
必要最低限の仲間を、必要なときに集められる人。
さっきのテーマとちょっと矛盾するようなのだが、彼ら彼女らが徹底して一人を貫くとも、実は限らない。確かに群れることも少ないが、大抵仲間が数名はいるものだ。
すると、たとえ何十人も反対勢力がいようと、自分と考え方を同じくする同志が数名いれば、比較的自由に、好きなことができる。
皮膚感覚でそのことがわかっているからこそ、同志を見つけることの労力は惜しまない。そんな仮説をぼんやりと僕は考えている。
例えば感染のリスクを理由に学校全体での旅行が立ち消えても、”気にしない”という同志数名で旅行に行けばいい、という風に。
ただしその仲間との関係性において、そこまで”維持”に執着する印象はない。自分や相手の成長や状況の変化に応じて、人間関係が流動的に変わる。
そのことさえも、ある種「当たり前だよね」っていう風に、さほど気にも留めない。もちろん後々になって、繋がりが復活することもあるわけで。
「他の人の意見がない組織とか、独断的になる」みたいな意見に流されることなく、 自分と同じ考え方の人を選んで繋がる。
計算なのか才能なのかはわからないが、八方美人の対極のような言動を取り、アンチ以上に、共鳴してくれる同類を集めるような感じだ。
例えば、「芸能人の不祥事に騒ぐのはアホ」と明言しておけば、「なんだと!」と憤慨する人からは攻撃されても、「俺もそう思う」という人からは支持されるように。
ただそれでも、集まった仲間に過度な期待はしない。自然消滅しても、裏切られても、「そういうもの」という以上の感想を持たない。
人間関係についても徹底してドライなのは、冷酷さではなく、スマートさにおける必要条件なのかもしれない。
【拒絶】の痛みを知りつつも、「この程度か」と思える程度に咀嚼しているか。
この項のテーマは、薄々そうだろうなと感じてはいるが、上記2つのテーマと比べても、全然自分の中でうまく言葉にできていないことである。
そういう事情がある手前、できることにもぶっちゃけ限界はあると思うのだが、頑張って言葉にしたいと思う。
さて。彼ら彼女らがドライなのは、人から拒絶されることに対しても同様だ。具体的には、人から拒絶されることを、論理的に考えた結果、恐れていないという感じだ。
少し余談に近いのだが、他者、ひいては社会から拒絶されることは、非常に大きい"痛み"を伴うという。一生消えない心の傷を負う人だっているくらいに。
確かに集団で暮らす社会的な動物にとっては、そこから疎外されることはつまり死と同義であり、全力で避けなければならない最悪のシナリオである。
その”痛み”を、物理的なそれに換算すると、どうやら癌で苦しんでる人のそれと同じぐらい強烈なのだという。拒絶の痛みは、実はそれくらい強いのだ。
・・・ここだけ切り取ったら、人から拒絶されることはとてつもなく恐ろしいことであり、起きたら最後、二度と立ち直れない程のダメージを負うという印象を持つ。
だからこそ、僕もそうだが、人は徹底して拒絶されることを避ける。「No」と言えない日本人というフレーズがあるが、「No」と言えない人など世界中にいるのだ。
しかしどこかで、それもまた誇張されすぎた話だとも考えている。例えば僕自身でも、過去を振り返ると、集団や社会から拒絶された経験も期間も、ちゃんとある。
部活動をサボった結果、部員全員から挨拶をしても無視されたあの頃。心を折って4か月間休職していたあの頃。それでもどっこい、しぶとく普通に生きているわけで。
僕みたいな神経症傾向が強い人間でも、それらに対して正直に考えることは、「思っていた以上には痛くない」という実感だ。
拒絶されるのは辛い。しかし脳内で無制限に膨らんだ、実態よりも遥かに誇張されてしまった痛みよりは格段にマシなはずなのだ。
注射が大嫌いな子が泣き叫ぶのを見た後で、自分が接種を受けた後に、「なんだ、こんなもんか」と思うのと同じである。
心は意外と丈夫なのだ。僕自身、ペットが死んだときや、明朗な芸人が自殺したときなど、もう立ち直れないんじゃないかというくらい、メンタルが落ち込んだこともある。
しかし今はけろっと立ち直れている。繊細で脆いといった風に形容されがちな人間の心だが、大抵はなんだかんだで回復するものらしい。
よくよく考えれば、心がへし折れるときは大抵、一発の激烈なショックではなく、シロアリが大木を倒すときのように、じわじわと長期間蝕まれ続けたあとなのだ。
自分が処理できる程度にストレスを抑えていれば、本来心は折れにくいものらしい。
それでも心理的な病が増え続けているのは、現代社会においてはその処理すべきストレスが強く、多くなっていることが原因であると思う。
・・こんなことはちょっと考えればすぐにわかるはずのことなのだが、驚くほど普段はこのことを忘れてしまう。拒絶されたら人生が終わるというイメージが、僕は拭えない。
一方、頭が良いと僕が思う彼ら彼女らは、このテーマについてどう向き合っているのか。
抽象的だが、恐らくあくまでも、現実的な感覚を理解していると思う。過度に膨らませず、かといって過少評価もせず、痛みと向き合うことができる、とでも言おうか。
その痛みと、リターンを冷静に考えて、後者が上回ると思えばさっさと行動する。感情に対してさえも中立なのが、僕は頭が良い人の最たる特徴の1つだと感じている。
もちろん天性のサイコパス気質によるものもあるだろうが、後天的に意識して身に着けたと言っていたヤツもいる。
ネガティビティバイアスという、無意識下の厄介な本能さえもコントロールする。くらくらするほどの難題だが、これができる自分を想像すると、心が躍る話ではある。
終わりに:僕らは「頭の良い人」になれるのか?
「頭が良い人」という言葉は、どうにも職業名とか資格とか肩書といった風に、何かしらのステータスのようなものに聞こえる。
持っていればちやほやされて、他者に対して優位なポジションをキープできて、あたかも自動的に人生が有利になるかのように。
ただ個人的には、客観的な基準など存在しない、ただの他者評価における感想とか印象程度に捉えておくのが丁度いいと思う。
自分で自分のことを頭が良いと思うのは滑稽だし、浅薄だ。一方、他者から頭が良いと言われたことが無いからと、くよくよ落ち込むのも同じくらい愚かだ。
つまるところ、「頭が良い人」というのは、先に述べた特定の思考プロセスの呼び名なのだろう。「早とちり」や「悲観的」と同様に、思考の型の一種に過ぎないのだ。
生まれ持った記憶力とかIQとは別の、思考法という部分。そこによるところが大きいのであれば、訓練で、ある程度のレベルには近付けられるのかもしれない。
例えば、詰め将棋を練習すれば「棋力」が上がっていくように、「感情を排して考えたらどうなるか?」を都度検証し、イメトレすればいいのではなかろうか。
「今回この不倫騒動にはむかっ腹が立ったけど、それはなぜだろう?」と振り返ってみる。すると、ただ人の感情が自分に乗り移っただけという風な感覚も得られるだろう。
天性の素質で頭が良い人になることはできない。しかしその思考法を練習し、狙った場面場面で、それなりに高い確率で、再現することができるようにはなるとは思う。
常時大局観をもって世の中を見ているような人たちを、僕は心底カッコイイと思う。その純粋な気持ちをモチベとして、僕も近付けるように頑張りたい。
おまけ:実は今回の記事では新しい書き方を試しています。
誰も気づいた人はいないと思うが、今回の記事は今までとちょっと異なり、3つの段階を踏んで書いてみた。
① 頭の中にあることをひたすらスマホに吹き込んで、アプリで文字に起こす。
② それを書き言葉に直しながら、加筆修正する。
③ 1日以上寝かせてから、再度推敲する。
という風に。【観察力の鍛え方】という本は、これに似たステップで書かれたそうなので、自分なりに真似してみたというわけだ。
不思議なもので、僕自身の言葉だし思考であるはずなのに、一旦文字に起こして加筆修正していくと、色々な発見があった。
自分の言い回しの癖とか、ある種独りよがりなところとか、説明や理解が不足しているところとか、そういったものが次々とわかったのだ。
これだけやった結果、完全なるカオスだったものが、ある程度の秩序を持った気がする。ただ、「そうそう、これだ!!」という真理に届いた感覚には程遠いのだが・・・。
さて。もちろん時間も労力も、ただ記事として書き殴るより3倍以上は掛かってしまったのだが、それに見合う価値はあったと思う。
皆様も、明確に言葉にしておきたい自論がある場合は、これくらい密に向き合ってみてはどうだろうか。結構楽しかったとは念を押しておく。
ということでこのブログ最長レベルの記事であったが、今日はこの辺で。