完全に停滞していたダイエットが、恐ろしい勢いで落ち始めて、なんか怖くなってきた中元です。ぶっちゃけ、酒も飲んでんのに・・・。
はい。今日のテーマだが、小学校の道徳で習いそうな話を基にしてみる。それは、「自分がされて嫌なことは人にするな」というフレーズである。
これについては、あまりにも基本的な哲学に聞こえるため、「人生はそこまでシンプルではない」とか「独善的な考え方だ」といった意見も、もちろんあると思う。
ただ僕自身は、この考え方はとても大事なものであり、そしてこのシンプルな言葉には、想像以上に深い教訓が込められていると捉えている。
ということでその意味について、ここから紙幅を割いて考えていこう。
あなたがされて嫌なことはなんですか?
なぜ、このフレーズに含蓄を感じるのか。
それは、「自分がされて嫌なことは人にしない」ためには、二つの重要なことを理解しておく必要があるためである。
まず一つ目は、自分がされて嫌なことは何なのかというのを、きちんと言語化することである。
「嫌なこと」は、された瞬間は強い不快感などが伴うため、「嫌なことをされた!」と気づくことは容易だし、その記憶だけなら、濃く頭に刻み込まれる。
しかし、「では、何がどう嫌だったのか?」を改めて自問すると、これがなかなか難しい。試しに少し嫌な記憶を思い出したが、「ただ嫌だった」としか思わない。
セリフとかなら何とか思い出せるが、それによってどう自分の感情がブレたかを言葉にするのは、実は難度が高い内省なのだ。
しかし、この部分に対してしっかり意識を向けて思考することで、自分の感情を掴んだり、気持ちを言葉にしたりするトレーニングになる。
結果、自分の気付いていない価値観が見つかるかもしれないのなら、これは万々歳な時間だと言えるのではなかろうか。
さて。もう一つの重要なことは何かというと、それが独りよがりであるかないかをきちんと検証することだ。
自分がされて嫌なことが、無条件で人間関係における普遍的な悪になるかというと、それは違うだろう。そこを蔑ろにすると、それこそ独善的な話である。
これを考えるには、「自分がこうしてほしいという想いを、他者が勝手に汲み取って自分に忖度すること」を求めていないかという観点から自問してみるといい。
例えば、自分は作業中に話しかけられることが嫌いだとして、「そんなもん言わんでもわかるだろ」と思って誰にも何も言わない・・というのはアウトである。
他者は自分の機嫌を取るために存在しているのではない。僕もたまにやっちゃう考え方だからこそ、気づくたびに猛省している。
さて。この時点でもう、この言葉に含まれる深すぎる教えについてはある程度分かると思うのだが、実は活用の仕方はこれに留まらない。
次項では、もう少しだけ話を広げてみようと思う。
「自分がされて嫌なことは人にするな!」という理念を共通言語にしよう。
「自分がされて嫌なこと」を、各人が言語化して共有できれば、逆に自由な風土の組織ができるのではと仮説立てている。
「リーダーの仮面」にも書いてあったが、人がストレスを感じるのは、「何をしたら怒られるか」が”わからない状態”にあるとき、らしいのだ。
だからリーダーの仕事は、自由な風土を作る"ため"に、ルールをキチンと明文化して徹底することだとも説かれていた。その材料として、これは使えるのではないかと。
例えば各々にレポートとして提出してもらいながら、それを完全に匿名にしたうえで、一度ミーティングを通じ、ルールに落とし込む感じだ。
こうすることには、別の恩恵もあると感じている。それは、意見を"発信し易くなる"ということだ。
そもそも、自分の要望を伝えることが難しいのは、その人にとって例えば何が嫌なのかといった部分を、その人自身が言語化できていないことが一因ではないか。
これが、最近思う、自分なりの仮説である。
僕自身、英語で自分の意見を言えるようになったと感じる最たる心当たりは、英検1級の想定問答集を徹底して暗記しまくったあと、というのは何度か書いた。
それと同様に、自分の価値観を言葉に落とし込んで、大量に自分の中に蓄えておけば、NOと言い易くなるかもしれない。それくらいの力を、僕は感じつつある。
「自分がされて嫌なことを人にしない」ためには、何が嫌いかを言語化し、独りよがりになっていないか確認し、共有する必要がある。
こう考えれば、単純な言葉の裏にも大きな学びがあると思うのだが、いかがだろうか。
では今日はこの辺で。