将来のことについて、ゆっくりと覚悟が決まりつつあります。中元です。
はい。今日は週に一度の研修の機会で、新入社員の授業を見学するという時間があった。
上からものをいってマウントを取るようなフィードバックはウンコだと思っているので、なるべく違う目線から、彼にとっても有意義な情報を伝えたい。
ただせっかくなら、自分にとっても学びになる時間にできれば、なおのこと素晴らしいよねと、そんなことを考えて授業を観ていた。
だから今日は、様々な性格や状況の生徒を頭に浮かべて、その生徒の役になってみたら何を思うのかというのに意識を向けて、見学に入ってみた。
すると結構、自分にとっても面白い発見があったので、ここでシェアしておきたいと思う。
引っ掛かったところを深掘りすると宝あり。(かも)
今回一番の発見となったのは、「自分が違和感を抱いたところ」に対して意識を向けてあれこれ考えると、授業に活かせるポイントになることが多いということだ。
例えば今回、授業の冒頭から本題の説明に入っていくとき、何故か自分の集中が散漫になったことに気が付いた。
それについて、「なんでだろう」と考えてみる。すると、気づいた。彼は、今からの時間で何をするのか、その説明を割愛しすぎていたのだ。
いわば、「見通しのない説明」が始まったことが原因なのではあるまいか。僕は人の話を聞けない人間なので、この辺りにはかなり敏感なのである。
もちろんこのフィードバックには彼にも伝えたが、これは僕自身の授業でも心掛けるべきことだ。
例えば、「今から何分の説明で、何を伝えるのかをきちんと冒頭で言おう」、みたいな。そうすることで、いわば受け身になりがちな立場でも、学びになるのだ。
他にも、一番後ろの席にわざと座り、眼鏡を外すなどして、「視力が悪い生徒でも見える文字のサイズはどれくらいか」を確認する、とかもやった。
身体がどこにあって、どれくらい開いていれば、黒板の文字が隠れるのか。そういった部分も逐一チェックする。彼のために、そして自分のために。
問いと仮説と観察のサイクルを、忙しく回し続ける。この考え方は、誰かに意見を言わねばならない場面でも機能する、普遍的な心構えだと思えてきた。
そもそも【問い】を得るためには、自分の授業を完成させてはいけない。
ところで同時に、こういった【問い】を持つためには、自分の授業が完成しているなんて思ってはいけないのだなと、改めて考えさせられた。
それはある種おこがましい考え方であり、そういう意識を持った瞬間、成長に繋がる余白部分が全て消え去るような危険な言葉だとさえ思えてきた。
説明を作る。実際にやってみる。このクラスでは理解してくれた。しかしあのクラスでは微妙だった。だから説明を入れ替えてみよう。
すると、別のクラスでは退屈そうという印象であった。では次は、どこを入れ替えてみればいいだろう。
―こんな風に、相手の反応に意識を向ける限り、問いは永遠に発生する。だから授業はどこまでいっても【完成】しないと思えてくる。だが、それでいいのだと思う。
更新を続けない限り、それが価値を持つかどうかは確約できないが、確実に現状維持すらできなくなり落ちぶれていくのは目に見えている。
授業を一つ行うたびに、改善点・課題点・修整点・疑問点のどれかを発見すること。これが続けられる人は、講師・教師に向いていると思う。
ということで今日はこの辺で。