いつから連続で酒を飲んでるか頑張って思い出してみると、なんと40日くらい前でした。肝臓が死ぬ前にオフ取ります。中元です。
はい。安全地帯から吠えている感じがしてかっこ悪いのは自覚しているのだが、僕が今の会社で強く危惧している点が1つある。それは、講師のフォロー体制の脆弱さだ。
例えば指導に難儀している生徒やクラスがあり、それについて相談・報告を入れても、「それはお前の自己責任、力量不足、怠慢。以上。」でオシマイ、という具合だ。
もちろんセリフとしてここまであからさまではないが、「指導に関しては全て自己責任」という文化をヒシヒシと感じて仕方がない。
そしてそういう文化・価値観が蔓延している学校や塾は、できれば就職先・バイト先候補から外した方がいいかもしれない。生徒として入塾するのも同様だ。
ということで今日は、そう思う理由と、それを踏まえて僕は何をどうするかの表明を、記事にまとめたいと思う。
指導は全て自己責任≒臭い物に蓋をする
これについては、苦い原体験がある。入社して1年前後の頃、あるクラスと生徒の制御に悩み、僕は助言を求めて上司にそれを直談判したことがあるのだ。
・・そのときに言われたセリフは、ぶっちゃけ憎しみの感情を伴い、まだ覚えている。
「生徒制御ができないのはお前のせいだ。なぜかというと、俺のクラスでは統率が取れているからだ。」
―この助言を受け、僕はたまたま「なら生徒制御について自分で必死で勉強してやらぁ!!」という方に吹っ切れたが、普通ならこれを機に辞めるだろう。
それくらいの暴論だ。そして僕は、自分がそれを言う側になっては絶対にいけないと、強く誓ったのもこのときである。
もちろん、この悲鳴を「甘え」と言える側面もあるだろうし、また自分でしっかりと考えるフェーズが必要なのも、今なら腑に落ちて自覚している。
しかし、こんな序盤の段階で丸投げするのはただの放任だし、また臭い物に蓋をして責任を逃れるための狡猾な言い回しとしか思わない。感情論的にも嫌いである。
そしてそもそも、誰が担当であれクラスが荒れているというのが事実なら、売り物として価値あるものを提供できていないということの裏返しに他ならない。
その状況を「おまえのせい」で逃げることは、是とされてはならないと思う。その講師の教育と同時に、フォローを入れて立て直すことがマストではなかろうか。
実際、荒れた学校の例と、それが立て直った例をたまに読み返すのだが、そこには陰と陽とでも言うべき、ある共通点が見え隠れする。
教員一人のせいにして見て見ぬふりをした学校が荒れて、逆に全員で団結して体制を立て直した学校が復活していく。こんな例を何度読んだことか。
それは塾も同じだ。「指導は全て自己責任」という文化がまかり通っている場合、最終的には心を病むところまで突っ込むリスクがある。可能なら、事前に探っておこう。
ちなみに、僕が独立した暁には、生徒・保護者への面倒見は当然として、講師の研修も引くほど高いレベルで作っていくのが目標だ。
講師をケアし、研修し、最低ラインの水準を上げる。自由なり一任なりは、その後の話だと思う。僕はガードレールを作るリーダーでありたい。
―ちょっと話が反れたが、ぶっちゃけ僕の愚痴と決意だけ書いても面白くないと思うので、続いては僕が調べた制御についての知識・ネタを、一旦まとめておく。
過去の僕と同じように、色々と苦しんでいる人に使える心掛け・ネタのみを厳選しておくので、ぜひ一読してみてほしい。
生徒制御で【欠点】を取る原因と打開策まとめ。
―とは書いたものの、ぶっちゃけ最高の授業の形は人それぞれであり、個人個人の問い➡仮説➡検証のサイクルの集積で、各々がそこへ辿り着くしかないと思う。
だが、荒れる授業の原因は十把一絡げに、人も性別も年齢も選ばず共通するものだ。その落とし穴を認識しておき、意識して避ければ、荒れるリスクは格段に下がる。
この項では、その落とし穴についてまとめていく。
①見通しを立てない
今から何を、どれくらいの時間話して、その後は何をするか。この見通しが無い時間は、話を聞けない僕も身に染みて感じるが、マジで辛い。
特にADHDの生徒は、見通しが無い時間に耐えることが不可能と考えた方がよくて、さして説明もせずに授業なり演習なりを始めたら、秒で荒れることは請け合いだ。
例えば小学校における取り組みだと、黒板の隅かどこかに、「全体の流れ(説明➡演習➡〇付け)など」を書いて、今は何をしているのかを矢印で示す、というのもある。
僕もなるべく、「今から〇分まで説明」という風に、時間の区切りを明言するようにしているが、確かに聞いてくれる率は高まったことを確認している。
ちなみに、「そんなめんどくさいことせんでも聞いてくれるわいw」という人は、実は話をスルーされているか、良い子ばかりが集まっただけかなので、まぁ喜びましょう。
②説明中に、生徒の質問へ答えてしまう
どの指南書にも確実に書かれている、教師・講師が犯しがちなミス及び荒れの原因・兆候となるのが、説明中の質問に答えてしまう、というものだ。
「これどういうこと!?」という、説明中の声。これを、「元気なやつめ」「好奇心旺盛だな」といって好意的に解釈することは、徹底して避けるべきだ。
そもそも説明とは一つの流れであり、AだからB、BだからC、それらを踏まえるとDという答えが出てくる、というのがテンプレだ。
つまり、AとかBの時点でわかるわけがない、と。序盤で手を挙げてしまう子は、この流れというプロセスを理解していない可能性が凄く高い。(あるいは衝動性が強いか)
むしろ、この時点で質問に答えて流れを切ると、その生徒以外の全員もわからなくなる。わからない授業は荒れる。それだけだ。
これについては、例えば積極的無視(スルー)とか、「終わったら答えるから待って」とだけ伝えて、説明を続けるかという施策が基本となる。(僕もよく使う)
尚、ここでの注意点は、ちゃんと最後に質問は何かを聞いてあげることだ。放置しっぱなしだと、それは無視と解釈され、クレームに繋がる。
ちなみに改めて質問すると、「やっぱいーい」という返しが滅茶苦茶多い。そのときは、「な、聞いとけばわかるから落ち着きんさい」と伝えるといいと思う。
③指示を同時に出す
これも意外とやってしまうミスだ。段取りが苦手な特性を持つ生徒は、2~3個指示が重なると、集中力がゼロになり、下手すればエスケープなどの行動を起こす。
それを回避するには、本当に一つずつ、指示を出していくしかない。例えば実際僕も、”意識して”、以下のような声掛けを行っている。
「はい、英語のテキストを机の上に出してー」
↓
「出した?じゃあ、160ページを開いて」
↓
「開いた?では、そこのA問題を、今から~分までに解いてみよう!」
という感じ。これを同時に言う人は結構多く、そして授業はこんな些細なところから綻んでいく。
発達障害とかADHDとかそういった語句で検索をかけると必ずヒットする教えなので、軽視せずに自分の発言に意識を向けてみてほしい。
④矛盾したことを言ってしまう
これは結構感情論だ。
例えば、普段から宿題を忘れる生徒がまたそうした際と、日頃は絶対に忘れない生徒がたまたま忘れた際、同じ温度であなたは宿題忘れを叱れるだろうか?
きっと前者はブチ怒り、後者は「しゃーないよな」と赦すのではないかと思う。そして生徒はそれを、「差別」「区別」という風に考える。
こういったカテゴライズをされた講師に待っている評価は、【不信】だ。不信感を抱く人間の指示になんか従わないし、むしろ邪魔してやろうという意識さえ働く。
もちろん、「じゃあそもそも忘れんな」と言いたい気持ちはわかるというか、僕も内心はそう思うのだが、本当に口に出した結果不信感を抱かれるなら、ロスがデカすぎる。
ここはシステマチックに、例えば叱るとか叱らないというレベルではなく、もっと感情を排した返しをするのが良いと感じている。例えば、以下のように。
「宿題、忘れたか。じゃあ次回忘れないため、今回何をする?」
―これまでのことは一切問わず、「今回忘れたことと改善策」だけを問う。ちなみにこれは、「リーダーの教科書」という本に書かれていた声掛けである。
講師や教師は、感情を出したり引いたり、そういうスキルが必須だよなとつくづく思うケースだと感じている。
⑤皮肉めいた指導をする
先ほど【不信感】に触れたが、これを強く生徒に抱かせてしまう声掛けがある。それは皮肉だ。皮肉は言いたくなる気持ちはマジでわかるが、僕は全力で堪えている。
具体例を出すのも憚られるが、例えば漫画や小説に出てくる”イヤな”先生は、体罰祭りというタイプよりも、皮肉屋の方が多いと思われないだろうか。
皮肉により自尊心を傷つけられた子供は、それを恨みに思う。恥をかかされたという行為に必ず仕返しをしようと思う。そして、そこからクラスは崩壊する。
皮肉を言うということは、子供相手に自分の自制心が敗北した証拠。僕はそれくらい強く、自分を戒めることを心掛けている。
―ちなみに、子供側から皮肉を言われたらどうするかだが、僕は逆に全力で乗っかって、「ウザッ」という顔をさせるゲームを勝手に楽しんでいる。
「結婚できんじゃんw」とイジられたら、「そうよ、できんよ。する気も無いよ。金を積まれてもしたくないよ。君らはしたいの?それはなんで?」とウザ絡む。
皮肉には皮肉で返すのではなく、乗っかってウザがられる。これが結局一番効き目があるし、何より自分にストレスが無いので良いと思う。
終わりに。
前半と後半で内容がまるで違う気がするのだが、後半については、意地でも言わせてもらう。
全て自分で調べて、実践し、また試した結晶だ。これくらい濃い話ができるスタッフを、僕は他に知らない。
学習障害、ADHD、発達障害。こういった言葉にいったいどれほど向き合ってきたことか。「指導は全て自己責任」という声掛け、絶対に僕は人にしない。
こんなことを漏らすと、「専門家でもないのに、教育論とか語るな!」というお叱りを上司から受けることがある。学習障害といった言葉の響きが嫌いなのだろう。
「専門家でないと語っちゃダメなら、教師でもない塾講師は即廃業では?」と内心毒づきながら、そのときはヘラヘラして終わったけど。
繰り返す。「指導は全て自己責任」という体質の学校・塾は、精神衛生上非常に危険だ。
今一度、自分がそういうところに身を置いていないか、入ろうとしていないか、そしてそれに染まっていないか、自問してみてほしい。
では今日はこの辺で。