ここにきてアブローラーの回数がガンガン伸びている中元です。成長はいつだって楽しいですなぁ。
はい。そんな呑気な出だしではあるが、今日ははっきり言って、かなりイライラしている。表面化していないだろうが、心がずっと静かに沸騰している感じだ。
かなりぼかして言うが、別の講師から生徒制御に難儀しているという悩みを僕が聞いた後、それを上司に伝えたところ、興味なさげに聞き流されたのがきっかけである。
元々僕は、自分が生徒制御に苦しんでいた頃に助けてもらった記憶はない。自分で悪戦苦闘して、勉強して、実践して、胃に穴を空けそうになりながら、ここまで来た。
だからか、例えば「俺の授業のときは静かだ」という物言いが本当に心の底から嫌いだ。そこには「だから助けないしお前が悪い」というメタを感じ取れるからだ。
・・・こんな風に、本当に皮膚感覚で嫌いな考え方や言葉を解きほぐすと、より具体的な自分の価値観が見えてくるかもしれない。
だからこそ、今日の苛立ちを、単なるストレスに終わらせるべきではない。そんなわけで、なるべく詳細に、この記事に言語化して落とし込みたいと思う。
- 自分の授業では制御できている?だからなんだっての?
- 「ADHDやASDのことを考えるのは失礼だ」?
- 授業内容の研修だけじゃなく、荒れない授業の基本も研修するべきだし、現状の共有もマストにするべき。
- 終わりに。
自分の授業では制御できている?だからなんだっての?
授業に規律をもたらし、完全に沈黙の中説明を聞かせられる講師がいる。これについては、本当に凄いと思う。ただし、恐怖を用いていなければ、だけど。
見た目が怖い。一切フレンドリーにしない。時にカミナリを落とす。主に恐怖を軸にした指導は、才能ある人がやれば、即効性を伴い、表面上は上手く作用するだろう。
だがこの成功モデルは、再現性がほぼ皆無であるばかりか、多分こんな人ばかりだと塾が潰れるという危険因子に近いものさえ、僕は感じているわけで。
あるいは、この辺が通用しない生徒(ADHDとかASDとか勉強したらわかる)に対しては、何の意味もないというオマケ付きだ。
そういう意味で、どの教育指南書を開いても、恐怖を活用した指導は"稚拙"とさえ書かれている始末である。
一方、そういった恐怖を用いず、必要な教育を施せる教師や講師がいたら、僕は心の底から憧れるし尊敬する。著書を買い漁りたくなるほど信奉する。
なんせ、その難しさは身に染みて実感しているからだ。楽しさと厳しさ、自己肯定と注意。矛盾する教えを、多くて週に1~2回しか会わない生徒にどう波及させるのか。
僕自身、油断すればすぐにキャッキャと授業が盛り上がり過ぎる。いつだって気が抜けないのだ。
女王の教室みたいな背景がある人ならさておき、恐怖を用いる人には多分わからない感覚だろうなと、独り言ちている。
「ADHDやASDのことを考えるのは失礼だ」?
ところで、個人個人の価値観にも因るのだが、【ADHD】や【ASD】といった言葉へのリアクションは、世代ごとに大きなギャップがあると感じている。
境目はどこにあるのかファジーだが、「単なる個性」と捉える人と、不思議なことに「講師の言い訳」と捉える人に、大きく分かれるのだ。
そして世代が上になれば、後者のスタンスの人が増えてくる。テメエの技量が低いことの言い訳だろう、生徒に責任転嫁すんなボケ、という高い温度の叱責が特徴だ。
それもそれで確かにプロ意識として極めて真面目と思うのだが、僕はそういう人達に対して、とても不安になる。不必要に生徒と講師を追い詰めてやしないか、と。
軽く勉強しただけでもわかるのだが、いわゆる多動性・衝動性は当人も全く制御できず、そしてそれゆえに苦しんでいる例も多いというのが特徴である。
実際、僕自身未だに、視界の端に素早く動くもの(虫や魚)があった際は、真面目な話の最中だろうが衝動的に顔を向けてしまう。30歳になっても自制しきれないのだ。
となれば、まだまだ精神が未成熟な子供たちにとっては言わずもがな、だ。その全責任を、さして対策を伝授することもなく精神論に着地させるのは、酷い話だ。
席に着けない。じっとしていられない。それは教える側の授業がへたくそだからだ。その子をもっと叱らないからだ。・・・これは何というか、暴論過ぎる。
もちろん怒声によって叱責する場面は時に必要ということは散見する。ところで、怒声による叱責が正当化される場面、それは皆様どのレベルだと思われるだろうか?
それは、命に関わる場面や、犯罪に直結する行為なのだ。単に授業中のザワザワなどでは不要というのが、大抵の指南書に書かれている意見として一致している。
こういった特性を抱える子達に対する声掛けは、非常にデリケートだし、成長もどうしてもじわじわという流れになる。その間責められ続けるとか、たまったもんじゃない。
怒鳴り散らす前に、するべきこと、考えるべきことは山ほどある。Googleで調べれば、膨大な量の知見と実例にアクセスできるのだ。
掲示物は最小限にしているか?視界に気を散らすものが入らないよう工夫しているか?いきなり45分の集中とか無茶ぶりをしていないか?
最悪、別室に連れていって落ち着かせるという手も打てるようにしているか?するべきことをちゃんと説明したか?そしてそれらを可視化しているか?
・・・こういった特性に関する知識は、学習障害と合わせて、現在の教育業界では必修のものである。それについて無知すぎるのは色々大丈夫かと、やはり思わされる。
「あんたの力量不足でしょ」とぽいと投げる人を、僕は尊敬しきれないし、僕自身そんな無責任な人にはなりたくない。学びはまだまだ深めねばと、未だに焦っている。
授業内容の研修だけじゃなく、荒れない授業の基本も研修するべきだし、現状の共有もマストにするべき。
僕が強く不満を抱いていることは、実は他にもある。それは、授業内容の研修に終始し、授業運営のそれが不足しがちという現実である。
内容についてはたくさんネタを授けていただいたが、授業を荒れさせない方法についてのそれは、最初に書いたが一度も言われたことはない。
教えたいことも、教えてもらいたかったことも山ほどある。例えば、以下の要素の内、これをやると授業が荒れていくポイントは、いくつあるかお分かりだろうか。
① 黒板付近に掲示物が貼られている。
② 先生の説明中に、生徒からの質問に答える。
③ 黒板の正面に立つ。
④ 赤のチョークで文字を書く。
⑤ 全ての指示を口頭で出す。
⑥ 25分以上説明を連続させる。
⑦ 名前を言わずに発問する。
・・・想像がつくと思う。全部だ。これが積み重なると、その授業は簡単に荒れていく。こういった知識は、もちろん自分でゼロから調べて知ったものだ。
無知だった頃は、これらのポイントをいくつもやらかしてしまっていた。そりゃ、荒れるわ。あんときの生徒たち、ごめんなさい、である。
今は意識してこれらのポイントをかわせるようになったので、安定して及第点を取れるようにはなった。だが、事前に学ぶ機会があれば、多分1~2年は短縮できた。
―また、最近トンとやらなくなったが、本来は各集団授業の運営状況について、講師間で時間を取って共有するべきではないかと、ふと思った。
「俺の授業だと大人しいが、そうじゃない人には話すのか」という風な二面性を知っておくことは大事だし、荒れる前に助言を出して食い止めることも可能となる。
講師の自助努力と素質に、一任すること。これは良く言えば”信任”だが、悪く言えば”臭い物に蓋をする”ことに他ならない。そして大体、後者なのが口惜しい。
各講師の色やクリエイティビティを殺さない程度に、最低ラインだけは統一し、死守させる。こちらの覚悟も問われるが、僕が作る塾では絶対に徹底させる所存だ。
終わりに。
ということで、やはり言語化にうまく成功すれば、ストレスもきれいに発散される。輪郭を掴めていない状況こそが、一番のストレスの源なのだろうと改めて思った。
とはいえ、塾という組織に、この辺りの学問・知識を修めた人はそもそも稀有だと思う。僕自身、素人に毛が生えた素人だ。
だが、診断ができるほどの専門知識は、別に要らない。僕が知りたい、広めたい知識は、実戦的なそれなのだ。でなければ、不幸な人が増える一方だ。
衒学的な目的のために、ここまでイライラしているわけじゃないのである。
そういうことが伝わればいいかも。今日はこの辺で。