未だにかしこまった場所で喋る際は、口から胃が出そうになります。中元です。
はい。突然だが、皆様はタイトルにある質問に、バシッと「そうです」と答えられるだろうか。
僕は、"今なら"胸を張って「そうです」と答えられる。しかし、この仕事を始めてすぐの頃は、そういうことが凄く憚られた記憶も、当然ある。
「いやいや、ペーペーの僕がプロなんて・・おこがましいっす」という気後れ。これは確かにあったし、実を言うと、今もまだその感じは抱いている。
ただ、抱いているからこそ、あえて、「プロの講師ですよ、僕は」と返答するようにしているわけで。
ということで今日は、「自信あるんだねぇ~」という切れ味鈍い皮肉を、「あ、わかってないんすね」と冷笑できるようになることを目指し、記事を書いてみようと思う。
そもそもプロとは何か。
まず、いつも通り?、【プロ】という言葉の語源から紐解いてみよう。【プロ】とは、やはりというか【プロフェッショナル】の略語(接頭語)だとある。
その上で、この言葉の解釈として、とてもわかりやすかった文章を紹介してみよう。
「プロフェショナル」という言葉があります。
語源は、ラテン語のprofessus。もともと宗教用語で、神に対して告白、宣誓した人や神の託宣を受けた人を指し、最初は聖職者のみを指しました。
この単語を分けると「pro」と「fessus」になる。「pro」は「前に」という意味の接頭語で「fessus」は「言う」という意味です。
「前に、言う」つまり、人の前で公言をする、宣言をするということです。
高い倫理観と技能を有しているということを宣言する人のことをプロフェショナルと呼びます。
―下線部を引いて強調しておいたが、実際のところ、プロとは元来、認められた結果そうなるものではなく、自分で宣言することでそうなる、というものなのだ。
例えば、「自分はプロの料理人です」と言った人は、宣言した瞬間からプロとなる。ある意味、言ったもん勝ちというか、むしろ言わないと永遠にアマチュアなのだ。
しかし、この考え方は、どうにも腑に落ちづらい。なんというか、厚かましさ、図々しさといったニュアンスを感じてしまうのも事実だ。一体なぜ、そう思うのだろう。
それについて僕は、世の中でプロと言われる肩書には、得てして難しい試験なり選抜なりといった、わかりやすいクオリファイがあるからだと感じている。
プロ野球選手になるには、ドラフト会議で指名されなければならない。IFBBプロになるためには、プロカードを取れる大会で優勝しなければならない。そんな風に。
しかし、プロであることがつまり、何かしらの資格を取得していることを意味するケースは、色々考えてみると、そちらの方が実は限られたケースのようなのだ。
ある水準まで到達したと自負し、それを踏まえてプロだと宣言する。そうすると、おめでとう。私もあなたもプロなのだ。
だから例えば、僕はプロの講師と言っても別にいいわけだし、何なら防波堤釣りのプロとか適当なことを名乗っても良いわけである。
それについて、「実力不足だろw」とあげつらう人は、ご存じの通り超少数派だ。大抵の人は、誰が何を宣言しようが、全くもって興味が無いのである。
「僕はプロです」と宣言する本当の狙いとは?
最初に僕は、こんなことを書いた。
「いやいや、ペーペーの僕がプロなんて・・おこがましいっす」という気後れ。これは確かにあったし、実を言うと、今もまだその感じは抱いている。
ただ、抱いているからこそ、あえて、「プロの講師ですよ、僕は」と返答するようにしているわけで。
プロにはまだまだ遠いと自覚しつつも、「僕はプロです」と自称しているのは何故か。この項では、それについて説明したいと思う。
まず端的に言ってしまうと、自分の意識・目線を強制的に高めるためだ。固い言い方をすると、コミットメントデバイスという仕組み・方法である。
これは名前を忘れてしまった認知バイアスも活用しているのだが、人は自分が宣言したことについて、現状が乖離しすぎていると、すごく不快感・違和感を覚えるという。
だからこそ、「プロです」と宣言した瞬間から、自然に自問することになる。「プロとはどういう人なのか?」「自分はその像に近づいているのか?」と。
例えば塾講師なら、僕が思うプロの条件は、さっくり思いつくだけでも以下の通りである。
① 8割以上の確率で、生徒の成績を上げる
② 何かしらの難関資格を保持している
③ 常日頃から新しい知識を勉強している
④ 校舎運営・飾りつけにまで、メッセージを込める
⑤ 講師の育成にも熱心である
・・そしてこれらのモノサシを、自分に当てると、今の自分に不足している部分は何か、逆に到達している部分は何か、明確にわかってくる。
こんな風に課題や現状が見えると、行動が変わる。そしてその行動によって、”本当に”僕は、他者から見てもプロに近づいていく。
プロになると宣言した瞬間から、プロとは何かという問いが始まり、それに答えるための仮説が作られる。つまり、一気に成長のサイクルが回り始めるのだ。
「プロの講師たるもの・・・」と他人から言われれば抵抗がある。だが、自分で出した結論であれば、心理的抵抗もなく従い易い。
このことを表す、好きなやり取りがある。確かTwitterかどっかで見たやり取りだ。
「自分の絵にお金を払ってもらうなんておこがましいと思いますよー」
「そんなだからお前はいつまで経っても、お金を出してまで買いたい絵を描けないんだよ」
この話は、聞いた当初は反発する気持ちもあったが、今は完全に腹落ちしている。プロ宣言しなければ、永遠にプロにはなれないのだ。
宣言とはある意味、問いの始まりだ。発想すらしなかった問いに、強く意識を向ける方法として、シンプルだがここまで効果が高いやり方を、僕は他に知らない。
コンフォートゾーンから強制的に飛び出す魔法のような声掛け。積極的に自分へ投げかけてみてほしい。
終わりに:「プロとして、どう?」
それもあってか、最近は自分の仕事ぶりについて、折に触れて「その思考、行動は、プロとしてどう?」と己に問うようにしている。
ただ、笑いながらポップな感じで声掛けをするように、そこまで重いメタとして自分に問うことはない。
時折思い出したように、「それ、かっこいいか?」くらいのテンションで、「それ、プロっぽいか?」と自問する感じだ。するとやはり、考える。
「いやー、アマチュアっぽいねー。ちょっと気合入れようかな!」という風に、自分が励まされるのを感じる。しかも、この上なく健全に。
繰り返しになるが、僕はプロだ。プロの講師だ。(某プロゴルファーを目指す少年みたいになったが)
言った手前、プロとしてふさわしい行動は何か、言動は何か、能力は何か、毎日本当に反省・検証する機会が増えた。成長とはこういうことかと、身に染みて感じる。
皮肉を言われてもいい。クオリファイがあるものはさておき、大抵のことはプロと言えばプロになれるのだから、臆せず宣言してしまえばいい。
その内、猛烈な成長サイクルが始まって、自分を笑った人をブチ抜く未来が来るかもしれない。そのときは、「これが狙いだったんす」と涼しい顔をして言えばいい。
僕はその様子を心の底からクールだと思う。そして、プロだと思う。そうなるために、僕は懲りずにプロ宣言を続けていく。
では、今日はこの辺で。