僕にとって幸福とは何なのか、たまに考える。ただし、「幸せ」とは何かと比較した結果生まれる相対的な概念であることが多いので、結構慎重に考えるようにもしている。
だからもっと単純に、例えば何をしているときが楽しくて、何をしているときは楽しくないか、そういう子供みたいな目線で身の回りのことを観察する。
具体を並べて、抽象を探す。すると気が付くのが、僕は人に何かを教えるのが好きだという点である。だから、ここの解像度を上げてみる。
単に人に何かを教えるのが好きというだけならば、人が知らない何かを語って悦に入ることだって好きなはずだ。だがそれは、器が小さい気がして、すごく抵抗がある。
また、自分が知っていることを語るだけでいいのなら、例えばセミナー講師や、YouTuberの方が天職という風になる。だが皮膚感覚として、そうはとても思わない。
塾講師として生徒に知識や技術を教えることが、一体どうして楽しいのか。今のところその仮説として、僕は「学びを共有することが好きだから」だと考えている。
僕が伝えたことを面白いと思ってくれるのも嬉しい。だけど、僕は生徒から面白いことを教えてもらっても、同じくらい嬉しい。
それをミックスして新しい場所に辿り着けたときは、もっともっと嬉しい。純粋に考えると、そういうところに勝手に繋がっていく。
―では、その逆に関しては、どうなのか。学びを共有できない場や状況を想像すると、僕はどういう気持ちになるのか。
・・・やはりというか、なんというか。ただ想像しただけなのだが、学びを共有する場と相手が存在しないことは、本当に辛く寂しいと、心の底から思ってしまった。
今日はそんなボヤきを書いてみる。
話が通じない寂しさ。
自分が口下手で、観点がズレているのも原因だと思うが、僕が必要と思うことは、なかなか理解してもらえることがない。
例えばADHDの勉強をしていると、教室をごちゃつかせないこと、刺激を減らすことの重要性がよくわかるから、それに則ってレイアウトなどの提案をしたことがある。
しかし、「生徒制御は講師の責務」とか、「勝手にそんなことに手を入れてはいけない」という謎の理由で、ずっと却下されてきたという流れがある。
発達障害等に関する知識を持たない人にとっては、全ては生徒にやる気が無いのが原因か、講師の制御力に難があるかという帰結にしかならないのだ。
もちろん、最初からやたらめったらと「多動だー、衝動だー」とレッテルを貼るのも論外な行為である。しかし、知っててやらないのと、無知なのは、話が違う。
似たことは、集団授業における講師の所作についても感じる。正直、単元そのものの指導も大事だが、生徒の集中を削ぐ言動を”しない”意識もすごく大切である。
自分で調べた結果、絶望しそうになるほど事細かに、こうすれば授業は荒れるという項目は既に体系化されていたのだ。
僕はそれをもっと早く教えてほしかった。だから、それを教える場を作ろうと提案したこともある。しかしその返答も、似たようなものだった。
教員免許等を持たない私企業の講師が、どの面下げてそんなことを指導するのか、という感じだった。なんというか、すごく寂しくなってしまったのを、まだ覚えている。
恵まれたクラスにばかり当たってきたのか、それとも自分がしてきた苦労を忘れたか、はたまた天性の恵まれた才能があったのか。
その人には、「制御」という言葉に関して、特になにも感想が無いことを知った瞬間であった。
僕は自分と生徒を救うために、色んなことを調べて、まとめて、仮説立てて、また検証というのを繰り返し続けている。
しかしそこで得た知見を特に残すどころか、シェアする場すら無いまま、据え置かれているのが現状である。みんな忙しい。だからそれは二の次、三の次だ、と。
話が通じないのは、やはり寂しい。これもまた一つ、自分の価値観を浮き彫りにするヒントなのだと、しっかりと認識しておこうと思う。
「自分がどこまで降りれるかだよ」
こんなときに頭に浮かんできたのは、さいとうひとりさんの言葉だ。それは確か、人が安定して成長し続けるための心掛けの話だったと思う。
うろ覚えなので、雰囲気だけ以下に書いてみる。
ガーッと成長し続けると、それは1つしかないブロックの上にどんどんブロックを重ねるようなもので、安定しないばかりか、いずれ倒壊する。
それを防ぐためには、ある程度昇ったら、下に下りるんだよ。下に下りるってのは、他の人に自分のやり方を教えて、能力を高めてあげるってこと。
そうやって他の人の力を高めてあげれば、ピラミッドみたいに下が分厚くなって、びくともしない基盤ができるんだよ。
・・・凄く腑に落ちる具体例だと思う。そしてこれができると、なんと強いチームができるのかと、すごくワクワクする気持ちも湧いてきた。
ようやっと一つの組織・校舎を任された手前、求められる仕事を定められたルールの中でこなし、成果を出していれば、僕にだって裁量はあるはずだ。
僕は僕のやりたい面白さをシェアしたいからこそ、裁量を欲していたのだ。実際今も、権威や肩書に対する執着は全くない。手段であって、目的ではないからだ。
学びを共有することを是とする文化・雰囲気。そのWHYというメガネを掛けて、日々色々なことを考え続けたいと、改めて思えた。
では今日はこの辺で。