精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【ローマは一日にして成らず】という言葉こそ、受験生なら胸に秘めて勉強に取り組むべし。

もう油が食えないことが判明して、唐揚げに対して別れの詩でも送ろうかと考えている中元です。

 

はい。ここ最近、すごく今さらなのだが、「努力」とは本来どういうものなのか、自分の中で一つ答えが出そう・・というところまで来ている。

 

今までは、目標から逆算して日割りにしたノルマを淡々とこなすことが【努力】だと思っていたのだが、最近はそこに、もう一つ考えるべき点があると感じている。

 

そして、そのもう一つ考えるべき点だと僕が思うことを、一番端的に言い表したフレーズが何かというと、タイトルに書いた【ローマは一日にして成らず】である。

 

今日はそんなところを取っ掛かりとして、僕が思う【努力】について、言葉にしたためたいと思う。

 

 

ローマは一日にしては成らず、ゆえに・・・

kotobank.jp

 

そもそも論として、「ローマは一日にして成らず」とは、どういう意味なのか。引用すると、こんな感じ。

 

「ローマは一日で建設されたものではない。大きな事業は短時日には成しとげられず、長い年月にわたる努力の積み重ねがあってこそ可能であるというたとえ。」

 

ローマは一日にして成らずとは - コトバンク

 

まぁ、その通りのイメージで考えている方がほとんどというか、別に深読みなど要らない簡潔なフレーズだと、僕も思う。

 

―しかし、この命題を逆に考えてみると、また違った教えが立ち上ってくるとも思えないだろうか。

 

例えば、こんな風に。

 

長い年月にわたる努力の積み重ねがないと、大した結果にはつながらない。

 

―つまり、自分が達成させたいものがあったとして、その壁が高ければ高いほど、そもそも長期戦を前提にした計画なりマインドセットなりを行うべし、ということだ。

 

受験勉強で言うのならば、年単位の学習がマストになると最初から想定し、例えば「3か月で突破・・」といった耳触りの良い話を、最初から真に受けない、という風に

 

正直、このことは自分の経験でも身に染みてわかる。体重を10㎏落としたいとき、英検1級に受かりたいとき、自分の生活水準を下げたいとき。

 

それらはいずれも、最短で半年とか、それくらいの期間が必要になる。長くなれば、数年がかりとかザラだ。

 

もっというと、求められる努力量が膨大過ぎて、それくらいの期間をかけても大丈夫なようにノルマを分割しないと、身がもたないという話だ。

 

「継続は力なり」とはまさにその通りで、成長が期待できる負荷で、かつ無理なく継続できる程度の量を試行錯誤しつつ、日常の一つとして取り込む

 

最近の僕にとっての【努力】とは、このことを指している。無理しているという実感があればそれは修行だし、短期間で無茶をすれば特訓という言葉の方がしっくりくる。

 

ローマは一日にして成らず。ゆえに、長期間の計画を前提として、毎日の努力量を決めていこうということ。僕はそう考えている。

 

改めて理解できる、「今すぐ始めろ!」の意味。

今まで腑に落ち切らせられなかった言葉に、「とにかくやれ!今すぐやれ!」というものがある。僕みたいな石橋を叩くタイプの人間には、恐怖の宣告に等しいためだ。

 

事前に情報を集め、根回しをして、それから取り組みたいという欲の全てを無視して、ある種浅はかなやり方を押し付けているだけだと、反骨する気持ちさえあった。

 

だが今は、時と場合に応じて、僕もあえて「今すぐやる!」ことがある。それは、自分が取り組もうとしていることについて、あまりにも無知なときである。

 

例えば僕で言えば、受ける気はさらさらないがTOEICを受検しようと思うと、何が不足していて、何を鍛える必要があり、それにはどれくらい掛かるか、ある程度分かる。

 

英検の経験もそうだし、そもそもTOEICを受けたこと自体、3回あるからだ。これらを駆使すれば、これからどんな敵に挑むのかをイメージすることは、十分可能である。

 

こういう風に、自分の中に類似の経験値があれば、僕は石橋を叩いて渡るモードに入り、準備を重ねてから、努力を開始することが多い。

 

一方、例えば毒物劇物取扱者試験という完全に無知な資格試験を取ろうと思ったら、まずはいきなり過去問題に挑むと思う。

 

「なるほど、大体語句の正誤がわかれば点が取れるのか」といった自分なりの気づきが得られるまでは、参考書を読むなどして、ひたすら壁にぶち当たってみる。

 

そして自分の中に似た経験があるところまで、目指すべき対象の実態が理解できて来たら、改めて準備を行い、それから努力に乗り出す、という感じだ。

 

例を挙げるのが難しいのだが、踵落しを習得しようと思ったら、見た目的に柔軟性を高めることはわかるし、実際にやると、振り上げる筋力も大事だとわかる。

 

となれば、複合的な動作と柔軟性が求められるという点では、昔やっていた野球のピッチングのようなものかとイメージできる

 

そうすれば、「じゃあ柔軟体操と、シャドウピッチ的な動作の反復練習はマストだな」と納得できる。具体的なメニューを調べるのは、それからという感じだ。

 

敵の正体があまりにもわからないときは、準備をせずに突っ込んだ方が話が早い。理解するまで時間が掛かったが、今はその意味も重要性も、身に染みてわかる。

 

そういえば、「今すぐやれ!」というマインドを提唱する人は、答えのない問題に挑み続けることが常である、いわゆる起業家的な考え方をする人に多いと感じている。

 

頭からそのアイデアに反発したことは浅はかだった。数秒だけ反省し、またできることをチマチマと頑張ろうと思う。

 

ということで、努力は長期間続くことが前提であるというお話を書いてみた。毎日13時間勉強といった話は美談に聞こえるが、僕は最近、あまりそうは思わない。

 

むしろ、もっと早いうちから手を打っておけば、毎日13時間もやらずに済んだのでは、と思う点も無いわけではない。まぁ、天邪鬼なもので。

 

今日はいつだって、死から一番遠い日である。このことは、努力の開始時点としても、僕は同じだと捉えている。皆様はどうであろうか。

 

では今日はこの辺で。