クリスマスであることが毎年毎年どうでもよくなるを通り越して、ただの日付の1つに過ぎないとしか感じない中元です。
はい。聖なる夜だか知らないが、クソ繁忙期の最中でも起きてすぐに洋書を読むというイカレポンチなことはずっと続けている。
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そして話が前半とはまた違った血生臭さをまとうようになり、教科書に書いてあった出来事の、そこの記載からは削り取られた凄惨さが窺い知れる。
おぉ、この記事がアップされる頃には、2022年が終わっているのか。そんなところまで来たのか・・。
ま、思い出に浸るのは終わってからですな。では始めましょう。
- 12月26日(月) Tokimune's wrath
- 12月27日(火) 残党
- 12月28日(水) 内国の憂い
- 12月29日(木) 日蓮
- 12月30日(金) 迎撃ノ準備
- 12月31日(土) 海の向こうの勢力図
- 1月1日(日) 記録に無き海戦
12月26日(月) Tokimune's wrath
「貴殿を日本国国王に任命す」
―クビライからの手紙に書かれていたこの一文に、時宗は激怒した。その迸る怒気たるや、側近たちの血の気を控えるほどの凄まじさだったという。
「任命だと?貴様の属国になった覚えはない!!」という感じだったそうだ。そして怒りに任せて立ち上がると、その部屋をずかずかと立ち去ったという。
使者たちは再び寺に送られ、そこでもてなしを受けた。だがその頃から、不穏な出来事が日本内で起こるようになる。若い女性たちが突然姿を消すようになったのだ。
ある時は絶世の美女とされる女性が、護衛の男性を殺されてまで連れ去られるという事件が起きた。現場に残された資料から、犯人が推測された。
モンゴル軍の痕跡・・。それはつまり、日本にモンゴルからの間者が、数多解き放たれているということの証左でもあった。
12月27日(火) 残党
芥屋の大門(けやのおおと) | 福岡・博多の観光情報が満載!福岡市公式シティガイド よかなび
モンゴルの間者、つまり文永の役の生き残りは、意外な場所と経緯で発見される。ある日嵐に巻き込まれて、岩礁地帯に流れ着いた漁師がいた。
彼らが発見したのは、巨大な洞窟。好奇心を抑えられず、彼らはその洞窟を探検しに入ったそうだ。
いくつにも支洞が分岐し、複雑な構造をしているが、進めるのは進める。その内日光が差し込む場所を見つけ、その先で・・・。
何かを洗濯する若い女性がいた。それこそ、突然姿を消した、絶世の美女であったのだ。刹那、「逃げて!」と言われたが、時すでに遅し。
漁師の一人は、後ろに隠れていたモンゴル兵に射殺されてしまった。しかし、もう一人は命辛々脱出に成功。敵の基地の情報を持ち帰ることに成功する。
すぐに大宰府側も討伐隊を編成し、洞窟への襲撃をかけた。紆余曲折ありながらも兵を討伐し、彼女の救出と、かなりの数の残党のせん滅に成功するのであった。
・・・ところで、この伝説について何度も検索をかけたのだが、それっぽい話が全然ヒットしない。上記の「芥屋」の写真も、それが本当にそこなのか、よくわからない。
もしかしたら色々間違っているかもしれないが、それはわかったら修正しようと思う。
12月28日(水) 内国の憂い
赤いマフラーが印象的な北条時輔と二月騒動の真相 - 闘犬乱舞。北条高時ブログじゃ
芥屋に潜んでいたモンゴル軍の残党は、どうやらモンゴルから派遣された6番目の大使と関係がある。それを突き止めた時宗は、使者たちの斬首を決定する。
これによって完全にモンゴルへの、ひいてはクビライへの宣戦布告となるわけだが、時宗の憂いはそれだけではなかった。身内に反乱を企てられたのだ。
しかしこの反乱は事前に密告され、首謀者として北条時輔らは誅殺されることとなる。このとき、時宗は20歳そこそこであったという。
現代では確実に推し量ることのできないほど、波乱万丈な人生に思えてくる。
12月29日(木) 日蓮
時輔を亡き者にすることで、支配体制が盤石になったかと思われたが、そこに新たな指導者が登場する。日蓮だ。
結構思ったことをバシバシ言うタイプの人だったらしく、かつて修行に入った寺の教えに反抗し、独自の教義を築き、信者はかなりの数になったそうだ。
しかし鎌倉幕府そのものや、時宗の信奉する禅を非難したことにより、島流しに遭ったり、あわや死刑というところになったりと、結構波乱万丈なことをなさっている。
ただし流刑地の先々で、その土地の人と悉く信者に変えてしまうなど、そういうしたたかさとカリスマ性はあったらしい。
鎌倉時代とは、モンゴル関係なく、国外も国内も激動の時代だったようである。
12月30日(金) 迎撃ノ準備
鉄壁ならぬ石壁の守り!蒙古襲来から日本を守った「元寇防塁」 | 福岡・博多の観光情報が満載!福岡市公式シティガイド よかなび
元軍はまたやってくる。執権時宗は、その襲来に備え、軍備を整え始めた。
各地の報告が滞りなく回るような連絡網を構築し、そして北九州沿岸に防塁を築き始めたのもこの頃だ。
更には全国に、「蒙古を見つけたら、躊躇わず切り捨てよ」という命令さえも発した。いよいよ全面的な衝突である。
そんな折、中国から逃げてきた難民を通じて、いよいよ元の支配体制が中国全土に及んだこと、そしてやはり再びの侵攻を計画していることを、幕府は知ることとなる。
第二の決戦の刻は、近い。
12月31日(土) 海の向こうの勢力図
執権・時宗が軍備を急速に整えていく一方、海を隔てた中国大陸では、遂に元の勢力が最高潮に達しようとしていた。
新たに誕生した中国の王朝をも取り込み、元は遂に直属の沿岸国を得た。これはつまり、息のかかった軍隊を直接、日本に送り込めるということである。
日本は徹底した防衛を。元は容赦なき侵攻を。それぞれの思惑が、間もなく衝突するというところまで、歴史は遂に進んできた。
1月1日(日) 記録に無き海戦
元軍が従属国に命じて建造させた軍艦の数は、なんと3,000を超えたそうだ。その完成をもって、元軍は日本への侵攻に踏み切るのであった。
最初の目的地はやはり壱岐対馬。元々は別々の海岸から出港した軍艦同士の合流を待って、一気に雪崩れ込む予定だったそうだが、そこはなぜか不統一。
一部の艦隊が先走って両島を襲撃し、弘安の役が始まっていくのであった。
・・ただ不思議なことに、この最初の戦の記録は、ほぼどの文献にも残っていないそうだ。陸上戦ではなく、おそらく海上戦だったため、という理由らしい。
一体ここで誰が戦い、誰が血を流し、誰が骸となったのか。想像することもできないが、思いは馳せたいと思う。
ということで今週はこの辺で。