2か月に一回くらい、本当になぜか無性にエビマヨが食いたくなる中元です。だから昨日は200g以上食いました。
はい。長いことモンゴル帝国が覇権を握るまでの歴史を見てきたが、ここへきて遂に、彼らが日本へ手を伸ばしたというところまで話が進んできた。
jukukoshinohibi.hatenadiary.com
無条件降伏すれば手厚く扱うが、そうでなければ蹂躙するという決まり文句。そして実際にそうするという強固な姿勢。野蛮だがそれゆえに無敵の国。
その国に睨まれた今、日本という国はどう立ち向かうのか。目が離せない章、読んでいきませう。
- 12月12日(月) 突っ返す
- 12月13日(火) 無言で突っ返す
- 12月14日(水) 生まれ持っての武士
- 12月15日(木) 度重なるコンタクト
- 12月16日(金) 準備
- 12月17日(土) 「よろしい、ならば」
- 12月18日(日) 対馬の戦い
12月12日(月) 突っ返す
モンゴルからの手紙について、鎌倉幕府の方針は一貫していた。拒否である。ただ少し面白いことに、武士道ゆえに拒否というより、いわば論理的に拒否していたのだ。
相手は大国と言えど、未だ航海術をもって日本に来たことがない、つまり海上戦に疎いのだから、戦となっても我らが勝てる、という風に。
こういうきっぱりした態度には時の天皇もひやひやものだったらしいが、それが公式の日本からの返答として、モンゴルへ持ち帰られることとなる。
さて、フビライの反応や如何に、である。
12月13日(火) 無言で突っ返す
毅然とした対応と言っても、「返事をするのさえバカバカしい」とでもいうことか、使者を僻地の宿所に放置したまま何も言わない、というのが公式回答だったという。
失意のうちにその高麗伝手にやってきた使者は帰国していったそうだが、それがどういう結果になるのか、それはおいおいの話だ。
ここで一旦、北条時宗という人物の話に切り替わる。まず、彼の養育に携わった人たちが、そもそもとんでもなく豪胆だという。
禅の哲学を徹底的に体現し、結果、伝説だらけになる感じ。例えばその中の一人は、僧としての留学中に、あらぬ疑いをかけられて死罪を宣告されることがあったという。
そんな理不尽に対しても怯えず、むしろ堂々と形式に則り死のうとする態度に感銘を受けた為政者によって解放されるなど、日本昔話的なエピソードが続く。
時宗の伝説はどのようなものだろうか。少し割引く必要があるだろうけど、純粋に楽しみな読み物だと思う。
12月14日(水) 生まれ持っての武士
Civilization VI: Hojo Tokimune - Orcz.com, The Video Games Wiki
彼の伝説とは、乱暴に言えばこんな感じだ。ある日武芸の鍛錬の一環として、遠くにある的を、馬上から射貫くという訓練が行われたという。
しかし、最高難度の技となると、誰も成功しない。「武士の恥じゃ!!」とばかりに、会を催した権力者は立腹だったそうだ。
そこで呼ばれたのが、近くの住居で他の子どもたち、兄弟たちと遊んでいた、幼き北条時宗だったという。
命を受けるや否や、彼は颯爽と馬に乗って駆け出し、既定の距離まで到達すると、さも自然に矢を放ち、ズトンと一発で当ててしまったのだという。
その技量や凛々しい顔に歓喜する観衆を尻目に、彼は成功の余韻に浸ることもなくその場を馬に乗ったまま立ち去り、再び童に戻って遊び始めた―
という。伝説と言えばそれまでだが、現実に起きたとしてもおかしくないエピソードだ。生まれ持っての武士。そういう印象を抱いた
12月15日(木) 度重なるコンタクト
一方、日本から断固たる返答を受けたクビライは、案の定激怒したという。高麗の使者が事実を捻じ曲げたのではとも疑い、自国の使者を今度は対馬に派遣した。
70人近くの武装した兵士を伴い、使者を送ったものの、時の対馬の支配者・宋助国と、その配下の武士たちの徹底抗戦の姿勢に、これまた撤退となったそうだ。
しかし手ぶらで帰ろうものなら、今度こそクビライの逆鱗に触れる。そう困った使者たちは、偶然にも帰路で対馬出身の漁師を二人発見、そのまま拉致することに成功する。
そしてモンゴルの宮殿で歓待し、圧倒的な軍事力、文化力の差を見せつけた上で、彼らの懐に書状を隠し、「送り届ける」という名目で、再び日本に姿を現すのであった。
ただ、その際の日本の返答も、やはりにべもないものだった。ここからいよいよ、元の対応も硬化していくこととなるのであった。
12月16日(金) 準備
モンゴル側はいよいよ業を煮やし、三度使者の派遣を決定する。今度は建造を命じていた軍艦も発動し、一つの大隊を派遣するレベルの規模で日本へ乗り込ませたのだ。
一方、高麗の人間にはさらなる軍艦の建造を命じつつ、侵略の際に使うためか、穀物の生産と備蓄を押し付けて、高麗はさらに疲弊していくこととなる。
そしていよいよ日本に、今度こそ手練れの、老練な使者が降り立つことになるのであった。鎌倉幕府の、天皇の返答や如何に。
12月17日(土) 「よろしい、ならば」
Mongol invasion of Java - Wikipedia
日本に上陸した新たな使者は、時の権力者に取り次げと頑として退かず、「そっちがそうなら俺の首を斬りおとし、手紙だけ届けろ!」とまで詰めるほどだった。
結果、大宰府からは出さず、手紙だけを鎌倉に届け、返答を伺うという妥協点に落ち着いた。その要求を見た時宗は、冗談めいた笑みを浮かべ、黙殺を貫いたという。
その報告が大宰府に届けられると、使者は失望し、再び挑戦へ向かって船を走らせることとなる。ただしその道中、壱岐対馬の住民を何人も拉致するなど、手ぶらではない。
さらに道中、日本の地理や文化、そして弱点や強みなどの知識を吸収し、帰国する。そしてそれらの情報を得たフビライは、高麗も取り込んだ新たな軍隊も編成し―
日本への第一の侵略が、始まろうとしていた。
12月18日(日) 対馬の戦い
モンゴル軍が対馬に攻め込む直前、島にあった寺が一つ燃えたのだという。幸い山奥にあったため人的被害はなかったそうだが、火元が一切不明で、不気味な話である。
しかし発火の瞬間を目撃した島民曰く、白いハトが飛んできて、それから炎が吹き上げたそうである。それを聞いたときの支配者宗助国は、膝を打って合点した。
「天啓だ!古来より、神託は白き鳩に託されると聞く!すぐに兵を集めよ!」
―そして島の武士を海岸に並べたとき、海の向こうから軍艦の大群がやってくるのが見えたのだった。
圧倒的な兵力、未知の戦法、武具における圧倒的な技術力の差。多勢に無勢、勇敢に戦った対馬の兵たちは、モンゴル軍の前に次々と斃れていくのであった。
これがGhost of Tsushimaの最初のシーンだろうな。あれを想像すると・・・鬼気迫るものを感じてしまう。
ということで今週はこの辺で。