精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【成長】とは、スライムに当たる課題を倒し、それを言葉にすることから始まっていく。

【成長】という言葉は、最近どこかうさん臭い意味を帯びてしまっているが、人間にとって必須で、かつ楽しい要素だよなと改めて感じている

 

できないことができるようになる。知らないことを学ぶ。そういう一つ一つに喜びを抱くことは、実は脳の基本的な機能として組み込まれている、という話もある程だ。

 

ただ、こういう前向きな学習や行動は、ほっといても誰でもやることだ。最近ずっと考えているのは、必要性に迫られて、成長しないとマズい場合のそれである。

 

つまり、現時点から能力を向上させないと、何かしらの不都合を食らうという類のものだ。例えば受験勉強とかが、最もモデルケースとしてしっくりくる。

 

このための努力は僕自身もずっと苦手であり、しなくてもなんとかなっている現状が邪魔をして、行動を継続することはおろか、起こすことも大変難しい

 

しかし今は、足踏みばかりして出発地点の土を延々と固めるような真似はしなくなり、幾分「せんといけん成長」に対しての心理的抵抗は弱まってきている

 

そのために心がけていることを、今日は書いてみよう。

 

 

【Hero Wars】の広告を見ていて気付いたこと。

https://app.famitsu.com/20220205_1907434/

 

YouTubeなどを見ていると突然差し込まれる広告の一つに、よくよく考えると示唆に富んでいると思うものがある。

 

鉄拳の風間仁に似た謎の男が空から降ってきて、塔の中に潜む、頭上に数字が書かれた魔物を次々倒すというゲームを見たことはあるだろうか。

 

大抵、最下層の敵の数値は最弱で、そいつを倒すと頭上に出た数字を得ることができる。ただし大抵は1とか2で、ドラクエでいうスライムのようなものである。

 

しかし数値を少しずつ重ねて、トータルの戦闘力が5とかになれば、4の魔物を倒せて、力を吸収し、9という強さに変わっていく。そこからの成長は、割と早い。

 

僕はいつしか、このゲームは実のところ、普遍的な【成長】の原則に極めて忠実なのではと、広告をぼんやり眺めながら考えるようになった。

 

だからといってダウンロードする気は無いのだが、ここから着想を得て、少し自分の行動に活かしていることがある。

 

それは、自分がやりたいこと、しなければならないことを定めたら、その目標にとっての「1」とは何かを探すようにすることだ。

 

いわば、スライムに当たる課題を探すことである。この目線で世の中を見たり、問題の解釈を変えたりすると、これがなかなかに楽しい。

 

例えば僕がずっと苦手とすることに、「断ること」というのがある。ビジネス書とかだと、まずは温和な友人や同僚の依頼を断ることから練習すべしと書かれているあれだ。

 

ただ、温和な友人や同僚は、温和ゆえにそもそも依頼をしてこないし、僕からすればこれは5とか6の強さを持った課題である。初期装備だと、多分倒されるのだ。

 

だから何から始めたものかと思ったが、自分の中で手応えがあったのは、もう長いこと見ていないYouTuberのフォローを解除するというものだった。

 

断ることとは、広義にしまくれば、「不要な、あるいは望まないヒトや場所、契約との繋がりを断つこと」と言える。だから上記の行動は、少しだけ繋がっているわけで。

 

ある意味、「断る」という語句をどこまでも薄めた先にある行為なのだが、これが結構よかった。なんというか、確かに小さな自信が、自分の中に重なるのを感じた。

 

大事なのは経験値の大きさではなく、有無だ。ついさっき僕は、ごく自然に、上司からしれっと振ってきた依頼を、「今ネット環境無いんで無理っす」と断っていた。

 

スライムに当たる課題を見つけて、倒すこと。ここから始めていくのが、今のところすごくしっくりくる、僕なりの成長の始め方である。

 

ちなみに注意してほしいのは、適当な模倣は経験値がゼロである、ということである。例えば一切動画や本を読まずに、ボクシングのフォームを練習するような行為。

 

あくまでも、経験値が1とはいえ、多少のドキドキや負荷をそこに感じねば、一歩目として間違っているということである。ここは結構、留意した方がいいと思う。

 

【成長】のプロの言葉を聞いていて気付いたこと。

 

アスリートに限らず、何かで突き抜ける人というのは、【成長】のプロである。彼らの共通点は何なのかと、年齢問わず、発する言葉には嫉妬ではなく好奇心を向けている。

 

すると気付いたのが、自分が感じたことを、自分なりのロジックであろうと、必ず言葉にしているという点だ。

 

例えば昨日、17歳にしてプロ並みの歌唱力を持つ女子高生がテレビに出ていたが、語っている内容は驚くほどレベルが高く、素人が聞いても技術論としてはサッパリだった。

 

しかし、大枠は何となくわかった。「この歌にはこういう特性があると考えており、こう向き合わないと良さを殺すと思うので、試行錯誤している最中です」という具合だ。

 

つまり、対象への分析と仮説、自分の現状といったことを、本人が逐一把握していることの証左ではないかと思うのだ。問いと仮説と観察のループが自然に回っている。

 

こういう思考ができれば何歳であろうがプロで、逆にこういう思考をせずに適当な模倣と批評家的な言動に終始していれば、何歳になろうがアマなのだろうと怖くなった。

 

やる前に自分は何を感じていたか。そして取り組んだ後は何を思っているのか。できれば記録に残した方がいいが、自問自答して言葉にするだけでも、効果はまるで違う。

 

ちなみに僕の例だと、フォローを外した人の心中を勝手に想像して少し抵抗があったが、そのちょっと不快な気持ちは数分後には消えて、心が穏やかになっていた。

 

できればそういう思ったことをシェアできる場があった方が、環境としては優れているが、そこまでは無理をしなくてもいいと思う。

 

少し天然と評されるアスリートも、取り組むスポーツや自分の感覚については誰よりも敏感なものだ。だからあの高みにまで上れたのだろう。

 

【成長】するためには、他人に嫉妬している暇など無いのだなと、今は素直に受け止めている。

 

まとめ。

 

つくづく講師とは、ティーチャーではなくコーチとして生徒に接した方がいい。持論なのだが、的外れではないと自負している。

 

手取り足取り全てを教えるのではなく、生徒一人一人における、学習に取り組み継続するためのドミノの一枚を倒す補助をする。

 

そのために教材が必要なら、提供する。環境が無いのなら、徹底して設計する。僕らにできることは、つまり成績向上のための環境設定と努力への支援なのだ。

 

教えるだけで成績が伸びるなんてことはない。これは、教えるということを軽視するという意味ではなく、もっと俯瞰的に講師という仕事を見たいという決意である。

 

成長が起きていないとき、生徒に対して強大すぎる敵をあてがっていないか?新たに自問すべきテーマが見つかったように感じる。

 

では今日はこの辺で。

 

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