精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕は僕が理想の講師に掲げた像に、近づけているようである。

昔、こんな記事を書いた。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

すごく乱暴にまとめれば、記憶に残っている先生がそうである理由は、その人へのネガティブな感情ゆえではないか、という僕なりの捻くれた仮説についてである。

 

その仮説の正しさはさておき、僕はやはり、記憶に残る講師にはなりたくない。「先生のおかげです」というセリフは、未だに言われるたび、実は寒気がしている。

 

僕が居るのとは違う次元の世界に羽ばたいて、僕のことを思い出す暇も理由も無いところで、レベルが高い人たちと楽しく暮らしてほしい。

 

僕の仕事はそこに送り出すことである。さながら自転車のコロのようなものだ。普段自転車に乗るとき思い出さないあの存在。僕はそうありたい。

 

今日はそんな、捻くれ倒した”僕がなりたい理想の講師”について、その現状を書いていこう。

 

 

僕が幸せを感じるとき。

 

僕がこの仕事をやっている理由。ふと考えてあれこれ思い巡らせることがあるのだが、その結論は大体いつも同じだ。

 

自分が踏んだ地雷を踏む人を減らしたい。結局はそこなのである。わかり易いと言われたいとか、そういう欠落した自尊心を満たすなんてことは、1mmも考えていない。

 

内申点を取らないと、学校というシステムで非常に苦労する。大学受験を突破するには、根性よりも環境と学習法の知識が大切だ。

 

僕が知りたかったあれやこれやを、今なら知っている自分がいる。だからそれを伝えるのは、社会に生きる大人として、当然の責務だと考えているわけで。

 

それを通じて、僕は生徒たちに、”個”として肯定されたいのか。そんなことは、全くと言っていいほど考えていない

 

もちろん成人式の折で校舎に立ち寄ってくれたら嬉しい気持ちはあるが、それを仕事の目的にしたことも無ければ、期待したことも無い。

 

なんなら、「来んやろ」という風に構えている。それくらい僕は、恩によって誰かの記憶に残るということが、無性に嫌いな性格をしているらしい。(我ながら意外だが)

 

―ついこないだ、卒塾した生徒が校舎に遊びに来た。

 

髪型も変わり、着ている服も垢ぬけて、大学生活を心の底から満喫していることが、表情や会話の内容からどんどんと伝わってくる。

 

僕が属すことのなかった華やかな世界。満ち足りたコミュニティ。僕が葬った可能性を体現し、それでいて適応し、楽しそうなその姿。もうそれで、満足だ

 

僕とは違う世界、未来に行ってくれた。その事実がこんなにも嬉しいのかと、自分でも意外な気持ちがする。破滅願望でもあるのだろうか。

 

ただ、僕を慕って、非常勤講師として働いてくれている元生徒もいる。それはそれで有難い。しかし最終的には、僕は彼ら彼女らの心から、いずれ消える日を望んでいる

 

なぜ、僕はそんなにも、心に残りたくないんだろう。ここまでの文章を読み返すと、ただの病気である。実はその理由は、僕自身全くわかっていない

 

しかしながら、僕は元生徒に囲まれる未来より、元生徒が僕を忘れるほど高みに上っているのを眺める未来の方が、すごく嬉しい。

 

ネタバレになるので詳しくは書けないが、龍が如く6の最後のシーン。言うなればあれが僕の理想の引き際である。

 

僕は色々あって子供を残せる気がしない。色んな運命に抗ってでも残したい、という気概も無い。ジーンは諦めたが、ミームも残したいかどうか、アヤシイ。

 

自分は何を成して、大河の一滴に戻りたいんだろう。墓石に、なんて刻まれたいんだろう。尊敬する人が己に問うた質問を、自分にもぶつけてみる。

 

答えは全く出てこない。しかし僕は、僕が理想の講師に掲げた像に、正体はわからないままに近づけていることだけは間違いないと、そう独り言ちている。

 

では今日はこの辺で。