精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

僕が自分から「俺が校舎長です」と言いふらしまくっている理由。

年度が替わり、ぬるっと昇進を果たした。とはいえ旧年度のタスクとごちゃごちゃになっているため、まだまだ実感がまるでないというのが本音である。

 

そんな状況だが、折に触れて、「俺が校舎長になるんですよ」という宣伝だけは、無理矢理機会や口実を作ってでも、生徒やご家庭に繰り返している

 

ここだけ切り取れば、あまりにも強い自己愛ゆえの行動に思えるが、実際はその逆である。自己愛型のマネジメントに、ほとほと辟易してきたからだ。

 

その反動で、僕は僕がここを率いている者だと、とっとと周知させようとしている次第である。

 

今日はそんなお話である。

 

 

今でもやっぱり「責任は俺が取る」という言葉が嫌いなもので。

 

少ししつこいくらいの繰り返しになるが、僕はやはり「責任は俺が取る」という言葉を聞くと、虫酸が走ってしまう。生理的に嫌いというヤツかもしれない。

 

その理由は死ぬほど簡単で、そういう言葉を言う人が責任を取ってくれた例をまるで知らないからだ。そしてそういう人が作る組織には、ある共通点がある。

 

強権的に裏では振舞いながらも、それは顧客や更に上の方々には隠し、セリフは男気溢れることを言いながら、責任の所在は敢えて曖昧にしておく、という風に。

 

「現場のことは現場の人間が説明責任を果たすのが筋」とばかりに矢面に立った経験は、一度や二度ではない。ならば俺に裁量を持たせろと、何度相談したか知らない。

 

そういう経験がある僕なので、そのクソみたいな風土は全力で破壊してやろうと思っている。だから僕は”敢えて”、同じセリフを皆に言うようにしているのだ。

 

責任を取るべき人間が、きちんと責任を取る。中央集権ではなく、ガードレールを作り、その中で自由にやってもらう。その意図は何度も何度も繰り返し、伝える。

 

しかしやっぱり、「責任は俺が取る」という言葉が嫌いなので、出来れば口にしたくない。だから同じ意味の違う言い回しを使っているに過ぎないのだ。

 

1年近く掛けて固めてきた覚悟を、言葉にして、システムにして、文化にする。その全ての始まりこそが、僕にとっては、「俺が校舎長です」という宣言。そういう話だ。

 

「話は”俺に”持ってきてくれ」

 

リーダーがリーダーとして必要な仕事を全うするためには、情報が必要だ。そしてチームのメンバーから情報を集めるには、信頼が必要である。

 

ハッキリ言うが、僕は報連相という言葉も、未だに大嫌いだ。理由は、報連相をした結果、責任を持たされたり、ヘンな仕事を丸投げされたりすることが増えたためだ。

 

情報を持って来いと言われるが、持っていけば不利益なことをされる。そんな矛盾を僕は感じ取り、僕から上司へのそれは、正直結構手を抜いていた。

 

そんな誰しもが通る道を通った僕だが、それでもある意味、我ながら得だと思う性格をしている。

 

それは、自分がしたのと同じ不毛な苦労を、後輩たちにさせることが大嫌いと言う性分だ。そんな無駄なことに労力も精神力も時間も、割いてほしくないのである。

 

教えれば解決することは教える。そうしないことは考える。学びは共有し、お互いの糧にする。その理念は崩したくない。

 

「誰に話を持っていけばいいのか」という曖昧さを打ち砕く。そのために僕は、自分が校舎長だと喧伝する。水を差されても、止めやしない。

 

このことはエンタメの作品でも同じことだ。リーダー格のキャラは、リーダーとわかるステータスを持っている。僕の場合のそれは何か、よく自問する。

 

今はまだ試行錯誤だが、とりあえず身に付けるもの、そして仕事場のデスクは少し特別なそれにしようと思う。もちろん自腹で、だが。

 

人から褒めそやかされて偽りの優越感に浸るためではなく、きちんと責任を全うするぞと言う覚悟としての「俺が校舎長です」という主張。

 

これからもめげずに続けて、1日でも早く名実共にそう名乗れるよう頑張りたいと思う。

 

では今日はこの辺で。

 

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