合格発表をまた1つ控えている。こちらは高校受験のそれなのだが、ふとした折に頭のあちこちから、不安という感情が噴出してくる感覚がある。
「あれだけ直前で点を取っているんだからイケるはずだろ・・」「でもA判定の点は1回しか取ったことがないんだよな・・」という風に、楽観と悲観がシーソーする。
一時期はこういう不安から逃げずに、真正面から向き合って、それをねじ伏せることこそがポジティブで、いわば教えた側の責任だと感じていた。
しかし同時に、それはとても心が苦しい方法だとも感じていた。とはいえ良薬は口に苦しではないが、苦しいから正解だと思う気持ちも、ずっとあったわけで。
だが最近、新しい考え方に触れて、自省することで、不安に囚われすぎることこそ、無責任の最たるものではないかと思うに至っている。
今日はそんなことを書く。
限りある資源を大切に。
そのきっかけは、この対談だ。
この対談の中で紹介されていた考え方の中でも、特に強く惹かれるものがあった。引用して紹介する。
自衛隊のように命のかかっている場で最初に教わるのは「いつ決めるのかを決める」です。それまでは決して悩まず、決めると決めた時に集中して分析し決める。
漠然とした不安の中で同じことをずっと考えていると消耗するので、他の楽しみで不安から頭を逸らせておいて、必要な時に集中して悩むことです。そして、ひとりで悩まず、誰かと一緒に悩むことをおすすめします。
そして自分の目を覚ます最たるきっかけになったのは、他の楽しみで不安を逸らし、必要なときに悩むことが大事という部分である。
不安に対して、そこから目を逸らすことは無責任ではないのか?実はその考え方こそ無責任なのではないかと気付いたのは、この部分がヒントになっている。
例えば僕が、受け持っていた生徒が受かったかどうかを気に病んでクヨクヨしているとき、犠牲になるのは現在受け持っている生徒たちである。
何故かというと、僕の心は今ここに存在せず、したがって授業に対する集中がおざなりになってしまうからだ。適当な授業を受ける側は、たまったものではない。
しかも、僕が自責に終始すれば、受験を終えてもやもやする生徒たちが救われるかと言われれば、そんなこともあり得ないだろう。
だから、不安から気を逸らし、なんとかして今に意識を向けて、自分に手が届く世界をよりよくできるよう、そのための努力をすべく前を向く。
この一連のプロセスは無責任なんかではない。むしろ逆で、責務を全うしようとする人の行動そのものである。僕はそう信じている。
毎年毎年、この時期は自分の言動を深く深く反省する。時にはメンタルが落ちすぎて、帰ってくるのに難儀するところまで行くこともある。
だが、結局それによって得られる答えや経験で救えるのは、どう頑張っても”これから”の生徒たちだけなのだ。そこは冷厳な事実である。
本当に向き合うべき相手は、頭の中に巣食う不安感などではない。そのことに気付けた、非常に示唆に富んだ対談記事だと思う。
本当に子どもを思っているのなら、あなたのことも大事にすべきだ。
痛ましい話だが、教員は心を病む人が多いと聞く。その方々はとても責任感が強く、本当に子どもたちのために働き続けた結果、自分を壊すのだろうと思う。
だが、心を折って現場から離れることは、全くもって子供のためになっていないという話だとも、正直思う。
僕が高校2年の頃、荒れ気味だった僕のクラスを担当していた先生が、適応障害で数ヶ月、休職したことがある。
その人が抜けてからというもの、引継ぎに難儀したり、授業が滅茶苦茶になったりと、僕たちにとっては正直、良くないことが連続してしまった。
悲しいかな、そういう目に遭ってしまえば、その先生に同情したり、労ったりするような思考は、頭に浮かばなくなる。
誰も救われない。誰からも救われない。責任を全うしようとしてそうできなかったとき、こんなにも悲しいオチが待っているのだと思うと、心が本当に苦しくなる。
本当に目の前の存在を守りたいのなら、自分が折れてはダメなのだろう。そして自分を折らないために大事なのは、いわゆる慈悲だ。
自分で自分を慈しむ。それは無責任でもなんでもない。僕はそう納得している。だから今週末も、平気でプライベートの遊びに繰り出す予定である。
責任感を履き違えて、悲しい未来を引き寄せることなかれ。そう願って止まない。
では今日はこの辺で。