精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「類は友を呼ぶ」という言葉のダークサイドを語る。

「類は友を呼ぶ」という言葉がある。すごくあっさりと解説するなら、「みんな大体自分と似たような人と友達になるよね」みたいな意味合いだと思う。

 

この言葉自体は含蓄があるとかないとかというより、「まぁ世の中そんなもんでしょ」という当たり前のことを言っているに過ぎないと、僕はずっと考えていた。

 

しかし最近は、この言葉の持つ教えの深さが、薄々見えてきている。そのきっかけは完全に偶然だったのだが、ダークな意味をこの言葉は内包していると思えてならない

 

今日はそんなお話である。

 

 

「類は友を呼ぶ。それ以外を排除しながら。」

 

最近、ずっとチャンネル登録していたゆっくり実況(解説)のアカウントを2つ、「購読」から外した。理由はおいおい説明するが、観てて不愉快になったからだ。

 

当初は僕が好きなテーマをわかり易く解説・紹介してくれているチャンネルであり、晩酌のお供としてずっと長いこと視聴し続けていた。

 

例えば死刑囚の最後の晩餐、パラドックス、ハドソンの隆盛と衰退等々。まるでまとまりが無いが、いずれも僕が興味を惹かれるテーマばかりである。

 

しかし気が付けば、段々とその取り扱うテーマがおかしくなっていった。性格が悪い芸能人、企業の不祥事、スキャンダル、クソゲーと扱き下ろした紹介・・・

 

当初のチャンネルの方向性とはかけ離れた、昼の報道番組のようなラインナップ。一体何がどうしてそうなったのか。

 

その理由は簡単だ。それが視聴数を稼げたからである。ワイドショーが飽きもせずに不倫問題や不祥事を取り上げるのは、それが率を稼げるからなのは有名な話だ。

 

人はネガティブなニュースに反応してしまうという特性が、そもそもあると言われる。良い悪いではなく、虫が光に向かって飛ぶのと同じで、本能なのだ。

 

ただ僕は、芸能人の不倫も不祥事も、まるでどうでもいいと思っている。何なら、それに群がる人を見ていると、人の心の汚い部分を観ているようですごく不愉快になる。

 

そのチャンネル2つは、ネガティブな文言を前面に出すことで率を稼ぐことを選んだ。結果、それに反応する人たちが集まり、視聴数は稼げている。

 

まさに類は友を呼ぶというヤツだ。だが一方、僕はそこから離れることを選んだ。僕にとっては類ではないからだ。

 

―思うに、類は友を呼ぶという言葉のダークサイドは、この例を考えると非常にわかり易いのではなかろうか。

 

ゴシップ系の話を打ち出せば、それが大好きな人が集まってくるが、それが嫌いな人はどんどんと離れていく。類は友を呼ぶが、同時にコミュニティを分断するのだ。

 

そして分断されたコミュニティ内で人気を得るべく、せっせとそういうネタを集めては発表するのを繰り返す。悪口や不祥事がネタとして喜ばれる世界がまた一つ生まれる。

 

もちろんその辺は憲法でも保障されている個人の自由なので好きにすれば良いと思うが、僕は絶対に属したくない世界である。

 

類は友を呼ぶ。それ以外の思想を持つ人を排除しながら。チャンネル登録の解除を通して、また一つ闇を垣間見た気分である。

 

「朋あり遠方より来たる」


数字を追うだけなら先の作戦で良いと思うが、そうすると例えば応援とか支援といったハートフルな流れは、そのコミュニティ内だと絶対に起こらないだろう。

 

他人の不幸はネタにするべきであり、自分の知らないことは全て詐欺か宗教。偏見なのは認めるが、そんな人ばかりがウヨウヨしてると思っている。

 

このスパイラルから脱するにはどうすればいいのだろうか。何を指針としておくのがいいのだろうか。ここで思い出すのが、中学3年の論語で習う、このフレーズだ。

 

朋有り遠方より来る 亦(また)楽しからずや

 

hamabe-med.jp

 

当初は「昔馴染みの友人が遠くから訪ねてくれたら嬉しいよね」程度の意味だと思っていたが、今はもっともっと奥深いのではと、勝手に考えている。

 

ここでいう朋とは、既に友達となった人だけではなく、志や価値観を同じくする、まだ見ぬ人も含むのではないか

 

自分が思うことを発信し続け、時に否定されながらもめげることなく努力を重ねた先にある、共感・共鳴した相手との出会い。そんな素晴らしい意味も含むのではないか。

 

さらに、逆に考えると、自分が一緒に居たいような人がわざわざ訪ねてくれる、声をかけてくれるような言動を自分はしているかどうか、自省するきっかけにもなり得る

 

先の例だと、僕は芸能人の不倫などどうでもいいと言う人と交友を深めたい。ならばその人達と出会うには、ゴシップを肯定するコミュニティから出なければならない。

 

そう考えると、「嫌われる勇気」とは「幸せや自由を意味する」というアドラー心理学の言わんとするところが、また違った意味を持って自分の腑に落ちた気がする。

 

類は友を呼ぶ。

 

すごくニュートラルで、かつ含蓄のある、深い言葉だと思った。

 

では今日はこの辺で。

 

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