いわゆる全体研修のようなものがあり、非常勤講師として勤める大学生が一堂に会する機会があった。
これも一つのイベントであり、非日常であり、緊張しながらも充実している雰囲気を感じ取れて、集まりとして有意義だったに違いないと、そう確信している。
それが終わった今、独りになって冷静に振り返ると、それこそ10代・20代の頃には抱いたことがない不思議な感情を噛みしめていることに気が付いた。
近いところで言えば寂寥感とかその辺なのだが、それが的を射ている手応えもない。正体が分からないのは、気持ちが悪い。
だから暇なのでじっくり掘り返してみたところ、全然関係ないところで、繋がるものがあった。僕がエンタメで感情移入できる対象が、気付けば変化していたのだ。
ということで今日は、ぶっちゃけ30代で抱くには早すぎるような気もする、僕が今抱いている感情について、ざっくりと言葉にしておこうと思う。
もう一員に戻れないコミュティが愛しい。
いつぞや記事にした気もする話だが、僕は若者に交じり、世代を超えて交流を深めるというイベントに、違和感を抱く。
僕はもう30代であり、立場があり、肩書も貰っている。フラットに接せているようにみえて、大学生である彼ら彼女らは、僕とは必ず壁を一枚隔てている。
それは悪でもなんでもない。ただの時間の経過だと思う。小学校を修了すれば中学校に進級するのと同じで、一つのプロセスであり、抗う方がお門違いということだ。
そのことは頭では理解できているのだが、だからこそ、ふと寂しさに似た感情を抱くことがある。楽しそうな彼ら彼女らの輪に、もう僕は入れないのだと。
自分が20代の頃、同年代ばかりの集団に10個も年が離れた先輩が入ると、少し違和感を覚えた。異なる分人の発動が強制されるようで、不快ではないが、快適でもない。
今度は、僕がそれを覚えられる側なのだろう。大学生は大学生と集まりたい。僕はその場を創ればいいのであり、一緒になってその輪に入る必要はない。
コミュニティの一員としてイベントを受動的に楽しむ側を、僕は知らない間に卒業したようだ。盆踊りを踊るのではなく、その祭りを計画し実行する側に行った、と。
この違和感には、今年の春に実施されたBBQを通じて気付いていた。その後、同年代と集まればその違和感が無いことを確認してから、確信に至っている。
僕が今抱いている寂寥感に近い感情。それは、もう一員に戻れないコミュニティに対する愛しさなのかもしれない。
・・・だからといって、必死こいて戻ろうとも思わない分、この感情はその内消え去っていくんだろうと考えているんだけどね。
”役目を果たした者”に僕は強く共感する。
【CLANNAD】岡崎直幸 まとめ動画【親父】 - ニコニコ動画
高校生の頃、CLANNADというアニメに、同級生数人とハマっていた。当時は主人公・岡崎朋也と渚の日々を羨ましく思い、そんな未来を妄想した記憶がある。
そこから10年以上の時が流れ、そのときの僕が描いた夢は何一つ叶わないどころか、多分僕にとっては不幸を生むと悟っていることから、人生とは残酷だと思わされる。
さて。大体3~4話に一回は、涙腺を崩壊させるようなエピソードが混ざっているのだが、つい最近、自分の落涙ポイントが変わっているのに気が付いた。
ネタバレになるので詳述はしないが、あるキャラクターがある役目を果たし、晴れやかな顔で次の舞台へ進んでいく・・という描写がある。
高校生当時は「そんなもんかー」という程度だったが、今そのシーンを観返すと、なぜだか涙が止まらなくなってしまうのだ。
役目を果たした者だからこそわかる充実感と寂寥感。それが自分の中に沈殿して結晶化しており、それがグラグラと揺さぶられるということだろうか。
自ら道を切り拓く主人公より、主人公が道を切り拓く手助けをし終えたら、気配もなくスッと消えていく人たち。僕はその姿に強く共感し、心を揺さぶられる。
思えば僕もこの仕事をしていてつくづく思うのは、生徒の口から先々まで語られる講師には”なりたくない”という願望だ。
僕とは全く接点のない、煌びやかで高尚なステージに進んで、そこの住人として人生を楽しんでくれる方が嬉しい。そこに僕の影は、マジで要らないのだ。
自分の墓石になんと書かれたいか。そう自問自答する人の話を読んで、真似してみたこともある。結論は、墓石は要らんな、というものだった。
僕は自滅衝動でもあるのだろうか。それとも単に、厨二病が治っておらず、散り際の美学に小学生の部分がゾッコンなだけなのだろうか。
いずれにしても、もう今の大学生たちがいる世界の住人に、僕は戻れない。それだけ認識したら、その上でできることを考えることにしよう。
では今日はこの辺で。